飛騨の顔
坂口安吾
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鞍作《くらつくり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)皇妃の死の翌日[#「皇妃の死の翌日」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ポチャ/\
−−
日本で、もう一度ノンビリ滞在してあの村この町を歩いてみたいと思う土地は、まず飛騨である。五月ぐらいの気候のよいときが望ましいが、お祭のシーズンもよいかも知れぬ。京都はギオンの夏祭りをのぞいて多くの主要な祭が春の二ヶ月間ぐらいに行われるから祭のシーズンというものがあるが、ヒダはそうでもないらしいから、まとめてお祭を見るわけにはいかないようだ。
お祭りという隠居じみたことをなぜ持ちだしたかというと、お祭りには御開帳というものがあって、ふだんは見せてくれないものを見せる。ふだん見せてくれないものがヒダには多いのである。そして、そのなかには他の土地の秘仏とケタの違う作品がある筈だと私は見当をつけているからだ。
大昔からヒダの大工をヒダのタクミという。大工でもあるし、仏師、仏像を造る人でもあるし、欄間などの精巧な作者でもある。玉虫の厨子のようなものも彼らの手になるものが多かったように思われる。日本の木造文化や木造芸術の源流は彼らに発し、彼らによって完成され、それを今日に伝承していると見られるのである。
ヒダのタクミとはヒダの大工ということで、一人の名前ではない。大昔から、大和飛鳥のミヤコや、奈良のミヤコ、京のミヤコも彼らなくては出来なかったものだ。後世に至って、左甚五郎があるが、これはヒダの甚五郎のナマリであろう。彼の製作年代が伝説的に長い時期にわたっているのを見ると、これも特定の個人の名ではなくて、単にヒダのタクミという場合と同じような、バクゼンとヒダの名匠をさしているもののようである。名匠は概ねあらゆる時代に居たようだが、いずれも単にヒダのタクミで、特定の名を残している者は一人もない。伝説的に最古の仏師と目せられる鞍作《くらつくり》の止利《とり》が個人の名を残しているだけで、他に一名もわが名を残そうとして仏像や建築に署名した者も居らぬ。ヒダではタクミが当り前の職業だから、よその土地の百姓が米やナスや大根作りの名人の名を残そうなどゝ考えたことがないように、作者の名ということが考えられなかったのだろう。
作者の名が考えられないということは、芸術を生む母胎としてはこの上もない清浄な母胎でしょう。彼らは自分の仕事に不満か満足のいずれかを味いつつ作り捨てていった。その出来栄えに自ら満足することが生きがいであった。こういう境地から名工が生れ育った場合、その作品は「一ツのチリすらもとどめない」ものになるでしょう。ヒダには現にそういう作品があるのです。そして作者に名がない如く、その作品の存在すらも殆ど知られておりません。作者の名が必要でない如く、その作品が世に知られて、国宝になる、というような考えを起す気風がヒダにはなかった。名匠たちはわが村や町の必要に応じて寺を作ったり仏像を作ったり細工物を彫ったりして必要をみたしてきた。必要に応じて作られたものが、今も昔ながらにその必要の役を果しているだけのことで、それがその必要以上の世間的な折紙をもとめるような考えが、作者同様に土地の人の気風にもなかったのである。
だからヒダには今も各時代の名匠たちの名作が残っているということは、古美術の専門家すらも知らないのです。むろん私も知らなかった。だから私がヒダの旅にでたのは、ヒダのタクミに関係した目的も含まれていたが、それですらも彼らの隠れた名作に接することがあろうなどゝは夢想もせずに出発したのです。
★
ヒダのタクミが奴隷として正式に徴用をうけはじめたのは、奈良朝時代から皇室の記録にでてきます。しかし彼らが帝都の建設に働いたのは、もっと古い時からだ。けれども、それは記録にはでてきません。しかし彼らの本当の活躍は現存する記録時代の以前にあったと思われますが、その時代には彼らは徴用工ではなかったのでしょう。なぜなら大和飛鳥へ進出してそこの王様を追いだして中原を定めたのはヒダの王様でありました。それが大国主《おおくにぬし》にも当るし、神武天皇にも当るし、崇神天皇にも当るし、ひょッとすると、欽明天皇にも当るのではないでしょうか。天照大神に当る方もこの一族でしょうが、その女の首長は神功皇后にも当り、推古女帝と持統女帝とを合せて過去の人物の行動に分ち与えた分身的神話でもあるらしくて、つまりその首長または女帝は同族の嫡流を亡して天下を定めた。それが今日の皇室の第一祖のようです。その時代は今から千三百年ぐらい昔です。天武持統両夫妻帝か、その前の天智帝の時に当ると私は思っているのです。
そして大和から追われた嫡流の皇子は故郷たるヒダへ逃げこんで戦って亡されました。それが大友皇子にも当るし、聖徳太子か、太子の嫡男たる山代王にも当るし、日本武尊《やまとたけるのみこと》にも当る方で、神話中の人物にもその分身はタクサンありますが、日本の中ツ国を平定するために天照大神に命ぜられてタカマガ原から日本の中ツ国へ降りてきた天のワカヒコのミコト、下界で恋人ができて一向に命じられた平定事業にとりかからぬので天照大神の投げた矢で胸を射ぬかれて死んでしまう。その方などにも当っております。天智以前の天皇記と神話は嫡流をヒダへ追って亡して大和中原を定めた庶流が、その事実を隠したり正当化するために、神話から三十代ぐらいまでの長い天皇物語をつくって、同一人物や事件に色々と分身をつくって各時代に分散させて、これを国史と定めた。だから古代史を解くのは探偵作業に当ります。殺人犯がいろいろ偽装すると同じような偽装事業として成ったものが最古の国史であるから、その偽装やアリバイを史書から見破るのが古代史を解く作業で、それはタンテイという仕事の原則と同じくよい加減な状況証拠でなくてハッキリと物的証拠をだしてやってゆかねばならぬ。過去の史家はこの分りきった偽装の方をうのみにして、これを真実の物としていました。そして、それに反する史料が現れると理窟ぬきでそれは国史に反するもの、マチガイを書いた偽書偽作ときめつけていたものです。
たとえば万葉の歌に、ミヤコから美濃と尾張の境にちかいククリの宮の恋人のところへ通うのに木曾の山を越え美濃の山を越えて、とよまれています。そんなバカな道順があるものか。大和飛鳥の都からククリの宮へ行くには奈良や京都や伊賀や近江を越えるかも知れんが、美濃の山や木曾の山はその向う側じゃないか。てんで話にならぬバカ歌だ。地理を心得ぬこと甚しい。こう云って一笑両断、バカ歌のキメツケを与えて一蹴してしまう。それが過去の歴史の在り方です。しかし天智天皇よりもちょッと前まで都はヒダや信濃にも在ったにきまっているのです。それはこういうアベコベの地理やマチガイ年号を書いているバカ歌やバカ本や金石文等の数々を見ればすぐ分るのです。
そういうわけで、ヒダの王様が大和飛鳥へ進出して中原を平定したのだから、奈良朝以前の、つまり現存の国史の書かれた以前に於てそのミヤコをつくったのはヒダのタクミであったのは当然ですし、また、彼らが大和飛鳥へ進出以前の首府としていたヒダの古京にもヒダのタクミの手になる宮殿も仏寺も(すでに仏寺もあった筈です)したがって日本最古の仏像もあったに相違ないのです。
ヒダの王様が大和へ進出する前に大和飛鳥に居た王様は物部《もののべ》氏でしたろう。これは四国の方から進出してきたもので、追われて後は、また四国の方と、伊豆や東国へと逃げた。そして彼らを追っ払ったヒダ朝廷の庶流が嫡流をヒダまで追い落して亡すと、物部一族をなだめすかして味方につけ同族の一派、功臣というような国史上の形をつくってやった。結局、ヒダだけがその後のかなりの期間大和朝廷に敵意を示し、朝廷を手こずらせもし、その憎悪もかりたてたようです。その秘密は記紀の記述からタンテイ作業によって見破ることができます。以上は文春本誌九月号の新日本地図にやや具体的にタンテイの結果を書いておきましたが、いずれ本格的なタンテイ録、物的証拠のヌキサシならぬ数々をハッキリと取りそろえて、偽装のカラクリの下に隠れている真相を論証して、お目にかけるつもりです。しかし、それまでには相当の時間がかかると思います。
天武天皇も持統天皇もヒダ王朝出身の皇統に相違ないのですが、嫡流を亡して、故郷のヒダを敵にしたから、しばらくの期間はヒダのタクミたちを召しだしてミヤコづくりの手伝いをやらせるのに差支えがあったように思われます。いろいろと手をつくしてヒダの土民のゴキゲンをとりむすんで、奈良京の終りごろにはどうやらヒダにも国司を置いて税をとることもできるようになった。
平安京をつくる時にはヒダからとる税はヒダのタクミだけです。山国のヒダに物資が少いせいもあったかも知れませんが、ヒダのタクミの必要は甚大で、毎年百人ずつのタクミをヒダから徴用し、他にはタクミの食う分の米だけ取りたてているにすぎない。
この徴用タクミはよく逃げた。それは必ずしも過去の感情の行きがかりのせいばかりでなくて、他の国から召しだされた税代りの奴隷や使丁もよく逃げたし、土地に定着している農民まで税が重いので公領から逃亡して、私領へ隠れたものです。タクミもミヤコ作りの仕事場からさかんに逃げたが、故郷へ帰ると捕われるから、私領へ逃げる。諸国の豪族や社寺はタクミの手が欲しいからこれをかくまって厚遇して仕事をしてもらう。
奈良、平安初期には、逃亡したヒダのタクミの捜査や逮捕を命じた官符が何回となく発せられていますが、特に承和の官符には、変ったことが記されております。即ち、
「ヒダのタクミは一見して容貌も言葉も他国とちがっているから、どんなに名前を変え生国を偽っていても一目で知れる筈である」
という注目すべき人相書様の注釈がついているのです。
これによって考えると、ヒダ王朝の王様の系統と、タクミの系統は人種が違うようです。ヒダ王朝系統は楽浪文化を朝鮮へ残した人々の系統で、蒙古系のボヘミヤン。常に高原に居を構え、馬によって北アルプスを尾根伝いに走ったり、乗鞍と穂高の間のアワ峠や乗鞍と御岳の間の野麦峠を風のように走っていた。その首長は白馬に乗っており、それが今も皇室に先例をのこしているようだ。したがって、彼らは現今その古墳から発見される如くに相当高度の文化を持っていたが、居住の点では岩窟を利用したり、移動的テント式住居を慣用したりして、建築文化だけが他に相応するほど発達していなかったようです。またこの一族は山中に塩を探している。海から塩をとることを知らなかったようです。
彼らに木造建築法を教えたのは、彼らとは別系統の人々で、折よくヒダの先住民の中に木造建築文化をもつタクミ一族が居合せたのか、彼らがそれを支那、朝鮮から連れてきて一しょに土着したのか、それはハッキリしないが、人種の系統は別であったろうと思われます。
ヒダのタクミの顔とは、どんな顔なのだろう。一見して容貌も言葉も他国とちがうからいくら偽っても分る、という。それは千百年ほど前の官符の言葉ですが、今でもそんな特別な顔があるでしょうか。ヒダ人は朝敵となって、追われて地方へ分散した者が多いし、他国からヒダへはいって土着した者も多く、千百年の時間のうちには諸種の自然な平均作用があって、ヒダの顔という特別なものがもうなくなっているかも知れない。
しかし、私は戦争中、東京の碁会所で、ヒダ出身の小笠原というオジイサンと知り合った。その顔は各々の目の上やコメカミの下や、目の下や口の横や下などにコブのような肉のもり上りがくッついていて、七ツも八ツものコブが集って顔をつくっている。その中に目と鼻と口があって、コブとコブの間の谷がいくつもあって、そのコブは各々すすけたツヤがあって、一ツの顔ができ上っているのです。
ところが大家族
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング