日に太子が死んだと書いてはいるが、皇妃の死の翌日[#「皇妃の死の翌日」に傍点]とあるだけで、決して同じ年[#「同じ年」に傍点]の翌日とは書いてない。つまり、太子はたしかに二月二十二日に死んでる。しかし、皇妃の死んだ年の二月二十二日ではないのだ、という実に注目すべき意味深重な暗示をなしているのです。
この法王帝説という本の中で最も重大なのはこの註釈のくだりですよ。巷宜、註、蘇我也、という。これも意味深重な暗示らしい。このところでは、記紀の史実に従いながら、何事か重大な暗示をしようと努めており、その重大なカギがこの註釈のくだりに必ず隠されているように私は思う。私が日本の歴史を疑りはじめたのはここから出発しているのですが、この暗示からはまだ直接の解答をひきだすことができません。
欽明天皇の時代に仏教が渡来した。この欽明天皇及びそれ以後五代にわたるヒダ王家の嫡流は皇居を大和に定めつつもヒダにも(今のミノか)居城か行宮があった。飛鳥寺というのは大和の飛鳥ではなくて今のミノの武儀郡あたりにあったんではないかね。聖徳太子の七大寺のうち定額寺(葛城氏に与えた)というのは、ミノか伊那であろう。物部守
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