屋が像をすてたというナニワの堀江はミノの武儀郡と稲葉郡のあたり、入海がカガミガ原まできていた頃のその海ちかい堀江だろうと思う次第がある。今はそこに南波という地名があるとだけ述べておきましょう。くわしい探偵の結果は後日にヌキサシならぬ物的証拠をとりそろえて本格推理日本史を書くことに致します。
推古天皇の小治田の宮は尾張田の宮とよむのだろう。大和にも皇居はあったであろうが尾張田が暗示するように尾張の国境にちかいミノの地に居城があったと私は思う。この天皇の陵は、大野岡の丘の上より後に科長《しなが》の大陵へ移されております。大野というのはヒダ、ミノから越前にもまたがるヒダ王国の要点たる大野郡を指すのでしょう。庶流がハッキリと大和飛鳥にその勢力を定めてから、自分の歴史に必要な皇陵や神社を大和へ移したり造ったりしている証拠の一ツです。ですから、大和よりも早くヒダ、ミノには寺があったに相違ないと思う。長野に善光寺があるのもフシギではないのです。
ヒダの嫡流が負けて亡びたとき、ヒダにあった主要な皇陵はあばかれて持ち去られ、神社の神体も、仏寺の仏像も焼かれたり持ち去られたりしたろうと思われます。しかし、そのとき、わずかながら隠されて残ったものがある。その寺はワケあって再建されないが、名もないお堂のようなものの中に、秘密の仏像だけが今も残って伝わるような事実がありうるような気がする。バクゼンとそういうことが考えられるのである。
しかし、そういうことは過去に於て公然と言いうることではなかったから、何寺や何堂に古代の何があるという確かなことは文献的には知り得ない。過去に庶流の朝廷を認めずに闘争的だったヒダ人も、千年の時の流れに祖先の歴史を忘れきってしまってもいる。
――せめてヒダ人の顔がいくらかでも残っておれば、それだけでもホリダシモノだな……
私はヒダの旅にでるときバクゼンとそう考えて、そこにだけ多少の期待をもっていたのであった。
★
ドシャブリのクラヤミに下呂《げろ》へついた。長い梅雨のあとに更に昨日来の豪雨で、谷はあふれ、発電に支障してか、停電でもあった。
私はヒダの第一夜を下呂でねようとは思っていなかった。もっと名もない町や村で、自分の土地の旅人ぐらいしか泊らないような宿をさがして泊りこんで、古いヒダの顔や言葉が今もどこかにありうるかどうか、私のカンが最も新鮮な第一夜に昔ながらの土地の匂いを嗅ぎ当ててみたい、そう考えていたのだ。
ところが、ドシャ降りである。岐阜駅の鉄道案内所の話では、下呂以外に、ヒダの小さな駅に旅館があるかどうか、たぶんないだろうという話である。ドシャ降りでなければ、まだしもデタラメに下車して当ってみて、民家へもぐりこむ方法を案じることも不可能ではない。ドシャ降りでは仕方がないから、下呂へ降りた。
折からの土曜で旅館はたいがい満員らしかったが、予約した部屋がまだ一ツあいてるが、この汽車で予約の人が着かないからたぶん雨で来ないのだろうという次第で、水明館へすべりこむことができた。
私はこの旅行に「ヒダを語る」というウスッペラな通俗案内書を一冊だけぶらさげて出かけた。ところがこの本は水明館の死んだ先代の著した本だそうだ。その未亡人がやってきて、
「その本はこの土地では手にはいらなくて、一冊ほしいと探していましたが、よくまアお持ちですこと」
再版したいと思って探していたところだが、用がすんだら借してくれと云う。よろしい、と約束してきたが、旅行中に手帳をなくしたので、この本にメモをかきこんだから、まだ用が終らない。もう、じき終るでしょう。
この水明館の先代というのはヒダ出身ではないそうだ。それで却ってヒダについて他国へ紹介したいような気持を起したのかも知れない。ヒダで生れてヒダで育った人というものは、ほとんど自分の国について人に語るべき多くの興味を持たないようだ。
私は考えていた。ヒダの郷土史家の中に、ヒダ流の方法で郷土史を考えている人はないかと。――ヒダ流の方法というのは、ヒダ王朝は日本国史のタブーであり、それは完璧に隠されているが、ヒダに残った伝説をモトにしてヒダ流の国史を考えている人はないか、という意味である。しかし、そういう独特の史家はいなかったようだ。水明館の先代は、むろんそういう史家ではないし、元来が史家でもない。とりとめもない通俗案内書の一種にすぎないのである。
私の部屋の係りは二人のヒダ生れの女中であった。その姉さん株の一人はまさにヒダの顔であった。他国でザラに見られる顔ではない。幾つかのコブがかたまって出来ている顔なのである。こういう顔はその後の旅中に男には三四見かけたけれども、女では彼女の顔が私の見た唯一のものであった。
「いつでしたか、ヒダの顔だと仰有《おっし
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