もらう。
 奈良、平安初期には、逃亡したヒダのタクミの捜査や逮捕を命じた官符が何回となく発せられていますが、特に承和の官符には、変ったことが記されております。即ち、
「ヒダのタクミは一見して容貌も言葉も他国とちがっているから、どんなに名前を変え生国を偽っていても一目で知れる筈である」
 という注目すべき人相書様の注釈がついているのです。
 これによって考えると、ヒダ王朝の王様の系統と、タクミの系統は人種が違うようです。ヒダ王朝系統は楽浪文化を朝鮮へ残した人々の系統で、蒙古系のボヘミヤン。常に高原に居を構え、馬によって北アルプスを尾根伝いに走ったり、乗鞍と穂高の間のアワ峠や乗鞍と御岳の間の野麦峠を風のように走っていた。その首長は白馬に乗っており、それが今も皇室に先例をのこしているようだ。したがって、彼らは現今その古墳から発見される如くに相当高度の文化を持っていたが、居住の点では岩窟を利用したり、移動的テント式住居を慣用したりして、建築文化だけが他に相応するほど発達していなかったようです。またこの一族は山中に塩を探している。海から塩をとることを知らなかったようです。
 彼らに木造建築法を教えたのは、彼らとは別系統の人々で、折よくヒダの先住民の中に木造建築文化をもつタクミ一族が居合せたのか、彼らがそれを支那、朝鮮から連れてきて一しょに土着したのか、それはハッキリしないが、人種の系統は別であったろうと思われます。
 ヒダのタクミの顔とは、どんな顔なのだろう。一見して容貌も言葉も他国とちがうからいくら偽っても分る、という。それは千百年ほど前の官符の言葉ですが、今でもそんな特別な顔があるでしょうか。ヒダ人は朝敵となって、追われて地方へ分散した者が多いし、他国からヒダへはいって土着した者も多く、千百年の時間のうちには諸種の自然な平均作用があって、ヒダの顔という特別なものがもうなくなっているかも知れない。
 しかし、私は戦争中、東京の碁会所で、ヒダ出身の小笠原というオジイサンと知り合った。その顔は各々の目の上やコメカミの下や、目の下や口の横や下などにコブのような肉のもり上りがくッついていて、七ツも八ツものコブが集って顔をつくっている。その中に目と鼻と口があって、コブとコブの間の谷がいくつもあって、そのコブは各々すすけたツヤがあって、一ツの顔ができ上っているのです。
 ところが大家族
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