於てそのミヤコをつくったのはヒダのタクミであったのは当然ですし、また、彼らが大和飛鳥へ進出以前の首府としていたヒダの古京にもヒダのタクミの手になる宮殿も仏寺も(すでに仏寺もあった筈です)したがって日本最古の仏像もあったに相違ないのです。
 ヒダの王様が大和へ進出する前に大和飛鳥に居た王様は物部《もののべ》氏でしたろう。これは四国の方から進出してきたもので、追われて後は、また四国の方と、伊豆や東国へと逃げた。そして彼らを追っ払ったヒダ朝廷の庶流が嫡流をヒダまで追い落して亡すと、物部一族をなだめすかして味方につけ同族の一派、功臣というような国史上の形をつくってやった。結局、ヒダだけがその後のかなりの期間大和朝廷に敵意を示し、朝廷を手こずらせもし、その憎悪もかりたてたようです。その秘密は記紀の記述からタンテイ作業によって見破ることができます。以上は文春本誌九月号の新日本地図にやや具体的にタンテイの結果を書いておきましたが、いずれ本格的なタンテイ録、物的証拠のヌキサシならぬ数々をハッキリと取りそろえて、偽装のカラクリの下に隠れている真相を論証して、お目にかけるつもりです。しかし、それまでには相当の時間がかかると思います。
 天武天皇も持統天皇もヒダ王朝出身の皇統に相違ないのですが、嫡流を亡して、故郷のヒダを敵にしたから、しばらくの期間はヒダのタクミたちを召しだしてミヤコづくりの手伝いをやらせるのに差支えがあったように思われます。いろいろと手をつくしてヒダの土民のゴキゲンをとりむすんで、奈良京の終りごろにはどうやらヒダにも国司を置いて税をとることもできるようになった。
 平安京をつくる時にはヒダからとる税はヒダのタクミだけです。山国のヒダに物資が少いせいもあったかも知れませんが、ヒダのタクミの必要は甚大で、毎年百人ずつのタクミをヒダから徴用し、他にはタクミの食う分の米だけ取りたてているにすぎない。
 この徴用タクミはよく逃げた。それは必ずしも過去の感情の行きがかりのせいばかりでなくて、他の国から召しだされた税代りの奴隷や使丁もよく逃げたし、土地に定着している農民まで税が重いので公領から逃亡して、私領へ隠れたものです。タクミもミヤコ作りの仕事場からさかんに逃げたが、故郷へ帰ると捕われるから、私領へ逃げる。諸国の豪族や社寺はタクミの手が欲しいからこれをかくまって厚遇して仕事をして
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