いのではなく、つまり土地の人々は歴史的にヒダのタクミの作品に無関心なのである。彼らはむしろ円空という他国からきた坊主の彫りの腕をほめるのである。徳川時代の坊主で、生国はハッキリしないが、ヒダの人間でないことだけはたしかである。彼は千光寺に住んで、放浪の足を洗い、やたらにナタ一丁で彫りまくった。それがヒダの諸方の寺にある。これをタクミ以上の名作だと云うのである。
彼らが伝統的の気風として土地のタクミについて無関心であるのは結構であるが、円空の作をほめるのは甚しい心得ちがいである。
私はヒダのタクミの名作は、時間の都合があって、いくつも見ることができなかった。ヒダのあの町にこの村に、まだまだ多くの名作が人に知られずに在る筈なのだ。そして、知られざる秘仏の中には、大和の飛鳥朝以前の名作があるかも知れない可能性がある。私はそれを探してみたかったが、何がさて他に目的のある旅であるし、時日も甚だ限られていて、たまたま他の目的で出向いた先で仏像を見せてもらう程度であったが、そこは概ね兵火で焼かれたところであり、もしくは開帳の当日以外は見せられない秘仏であるために、収穫がなかったのである。
私の見たものでは国分寺の本尊、伝行基作という薬師座像と観音立像がすばらしかった。伝行基という手前のせいか、これだけは国宝であったが、諸国でザラに見かける伝行基という非美術品とは違って、これこそはヒダのタクミの名作の一ツであろう。
ヒダの国分寺は創建もまもないうちに焼けた。そこにあった行基作の仏像は共に焼けたに相違ない。今の小さな国分寺ができたのち、高山市の他の寺から、この二ツの仏像をゆずりうけて本尊としたものの由である。
これこそはヒダのタクミという以外に作者の個有の名を失った伝統があって、はじめて生れてくるような名作である。
「美しいなア」
私は思わず叫び声をあげて見とれた。まったく、叫んで、見とれるだけの仏像である。ほかに何もない。この仏像は何も語らないし、一言も作品以外の言葉で補足しようとするようなナマなクモリがないのである。このタクミの名人の澄みきった心境はただ仏像をつくって自ら満足すれば足りるだけのことであったし、その技術もまた心境と同じようにクモリもなく完成されている。そして出来上ったのが一ツのクモリなく一ツのチリもとめていない、ただその美しさに見とれる以外に法のないこの
前へ
次へ
全16ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング