これは又あまりに肉体的にかたよりすぎるようであるが、今日我々に与えられてある恋愛の習慣的な見解というものが、これは又不当に肉体を割引している。あるいは又、一夫一婦制というものに対する我々の事実上の反逆にも拘らず、我々の頭の中の生活は常識的な見解を捨てきるだけの決断がつかない。そういう生活の状態で、まことに正しい魂が安息しようとは思われない。
私はこの数年非常に悪い状態の中に棲んでいた。面倒くさいから泥棒でも働こうかと思った。そうした方がむしろ魂が休息するように思えたりしたのだった。甚だよく喧嘩をした。神経衰弱の傾向もあったのだ。そういう私も、近頃は又奇妙に、そして甚だ不鮮明ないわば直観的な考え方によって、なぜか「抑制」と呼ぶものほど見事なものはないように考えることがあるのだった。だがこの考えは至って上調子なあやふやな代物で、やっぱり私の精一杯の気持といえば、せいぜい頸をくくりたくなったり人を殺したくなったりすることが関の山のところらしい。
私は「カラマーゾフの兄弟」を読んで、かつて読んだどの作品よりも心を打たれた。「アリョーシャ」を創造したドストエフスキーは一生の荊の道の後に於て遂に自らの魂に安息を与え得た唯一の異例の作家であると考えたのだ。私も自分の聖者が描きたい。私の魂の醜悪さに安息を与えてくれる自分の聖者を創りだしたい。それは私の文学の唯一の念願である。が、目下の私は泥棒か人殺しか鼻持のならない助平根性でも描くよりほかに仕様がない。いや、それすらも書けそうもないのだ。ただ私自身、泥棒を働きたくなったり、人を殺したくなったり、強姦を企んでみたり、そういうやりきれない日常を送っているにすぎない。諦らめ、抑制、又慾望。全てがなんという負担であろうか。
「文芸」の作品六つ読んだ。
芹沢光治良氏の「小役人の服」、横山属という五十すぎた小役人に課長が洋服地を投げてよこして、どうだね、これで服でも作ったらと言う。横山属はこの上役の言葉を色々に解釈してとにかく課長の気に入るために切りつめた生活の中から洋服を新調したが、課長の方じゃ洋服のことなんかまるっきり忘れていた、というのがこの作品の骨子であろう。これだけの話でも書きようによっては、この洋服が我々の最も深い哀愁の底へふれてくるに違いない。たとえばゴーゴリの「外套」のように。併しこの作品はあまりに概念的である。中尾課長はただの課長の最も世俗的な概念であるし、そのうえ横山属の立場からしか課長の正体をつきとめていないのは作者の勝手な依怙贔屓である。課長にとりいる才子でも主人公の横山属でもみんな常識的ないわば公式の羅列のようで生き生きと読者の魂に訴えてくるものがない。だから洋服も洋服という言葉でしかなかった。
この作品から私が考えたのは、純粋芸術と大衆文学の一つの相違点ということだった。バルザックの作品のあるものが今日では大衆文学にすぎなくなっていることのように、一時代の芸術が次の時代の通俗文学にすぎない例は数多い。というのは、その作品の生みだした新らしい倫理が次の時代では常識的な習慣的なものとなっていたからであろう。が、その作品の生れた時代から常識的であり習慣的であったという純粋芸術はない筈である。従而純粋文学と通俗文学を区分するところの一つの重大なる相違は作者の作家的懊悩が習慣の上にとまっているか、或いは習慣の埓を踏み破ろうとしているかにあると見ても差支えないと私は思う。
先般の新聞紙上で横光利一氏が今年の傑作は通俗小説の中から現れるだろうというようなことを言われているが、これは上述の通俗性の本質をはきちがえた見解ではあるまいか。思うに横光氏は読んで「面白い」小説の中から傑作が現れるという意味で、この面白い小説を通俗小説と称ばれたのではないかと考える。併しながら「面白さ」それ自体には通俗と純粋の区別は全くないのである。純粋さが面白さの為に通俗化するということは絶対にない。本来面白さというものは人々が軽率に嫌うほど、それ自体不純なものではないのである。作品が通俗小説であるのはこれの倫理が全く時代の常識でしかないことに由来するのであって、この意味からは通俗文学の中から純粋芸術の傑作が現れるということは完全に不可能である。
福田清人氏の「キリシタンの島」。男気のすくない南国のキリシタン島へ一夜兵隊の一行が上陸し、街を通り、天主堂でもてなしを受け、そうして翌日帰っていった。洗礼を受け、つつましく生活していた娘達が、若い男の気配だけに上気して小さな葛藤がまきおこるという話。だがこの作品では専ら人間の取扱い方法すら叙景的で、娘の葛藤も表面的な風景画に終っているのは物足りない。
阪中正夫氏の「赤鬼」。一見平々凡々のようであるが、この作品には作者の全てのものがつくされているように感じられた
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