やりたい衝動にかられたが、握り拳をふるわせてジッとこらえた。そして、冷静に云った。
「よろしい。投書を見せて下されば、私はその場に犯人の名を教えてあげる」
毛里の目の色が一変した。彼はジッと人見を見つめていたが、黙って立って部屋をでると、一通の封書を持って戻ってきた。
投書の文字はわざと小学生のように稚拙であった。そして、目撃者としてあげられているのは、当日の夕刻部落の路上で彼を見たという者も、現場に於て彼の怪しい行動を見たという者も、みんな少年であった。そこで彼は確信をもって断言した。
「この投書の主は花井訓導。あげられている証人が全部子供たちなのは、彼が子供に接する職業のせいです。そして、殺人犯人はこの花井です」
「なぜ?」
そこで人見は彼が事件の二三週間前に学校で花井と交した会話や、事件発生後の花井の奇怪な素振りをくわしく説明した。しかし毛里は聞き終ると、黙考の後ニヤリと笑い、首を振りながら、言った。
「それだけでは花井が犯人の証拠にはならないよ。その程度のことに比べれば、アンタとトランプの関係の方が抜きさしならぬ犯人の証拠さ」
「花井がサヨの情夫だったという証拠がありますよ」
「え? 本当かい?」
人見はバスの中で耳にした乗客の会話について語った。
「その乗客はアンタの村の人?」
「いいえ。よその村の者らしいが、その顔は覚えてます」
「どんな男?」
「農夫ともヤミ屋ともつかない四十ガラミの男です。かなり大きな荷物をぶらさげてこの町の目貫通りで降りましたよ」
「ヤミ百姓だな。それなら今日のバスで戻るに相違ない。よし一しょに行こう」
バスの停留場で寒風に吹かれながら待っていると、果してその男が現れた。人見は躍りあがらんばかりに喜んで歩み寄った。
「あなたは今朝のバスの中で、花井訓導がサヨの情夫だったということを連れの方に語ってきかせていましたね」
男は怪訝な顔をして目をそらして、相手になろうともしなかった。人見がせきこんで説明しようとするのを、毛里がひきとって、噛んでふくめるように説明したが、男は首をふって否定するばかりであった。最後に腹を立てて云った。
「第一オレは花井もサヨも知らないよ。オレがバスの中でそんなことを云った覚えがないということは、連れの男にきけば分らア。酒場にひッかかっていなきゃア、おッつけ来るころだ」
幸いにも、連れの男は酒場にひッかかったらしく、バスの出発までには現れなかった。なぜ幸いかというと、人見は薄々それが自分のソラ耳であったらしいことを自覚しはじめていたからである。
今朝のバスの中での彼と彼らとの距離はかなりあった。田舎の人は高声で話をしがちではあるが、二人の会話はただそれ一ツが聞きとれただけで、他に一言も聞きとれなかったということは奇妙である。バスにのってしばらくのうちというものは、乗客の会話がみんな彼の噂のように聞えてきて、彼は不安と羞恥に悩みきっていたほどだから、それがソラ耳かも知れないことは彼自身も納得できないことではなかった。
「オレは疲れきっているのだ」
と彼は思った。これを神経衰弱というのであろう。あるいはこのまま廃人になるのかも知れないなぞと切ないことが考えられて、彼の意識は思わず薄れて消えがちであった。
その彼を毛里は蔑んで見ていたが、急に確信してニヤリと笑うと、彼をバスに押しあげて自分も乗りこんだ。その確信は花井の容疑についてではなく、人見の容疑についてであることは云うまでもない。
★
夜の八時ごろバスは人見の村へ戻りついた。人見は疲れきって口もききたくないほどだったが、毛里は寸刻の休みも与えてくれなかった。ただちに花井を連れてきて対決させたのである。
「そんなことを云った覚えはないです」
と、花井は狂気のように猛りたって叫び、また怒った。それに対して人見はもう蚊のなくような声で自説を主張することしかできなかった。
「とにかく平戸先生をよんで訊けば分ります」
主張というよりも、あきらめきったようなかぼそい声であった。
毛里はこれから寝るばかりの平戸先生を強引につれてきた。平戸の証言はこうだった。
「私は仕事に耽っていましたので、お二人のお話が耳につきませんでした」
人見はまるで自分に無関係の話をきいてるように動揺がなかった。ややうつむきがちに、ただ黙々としていた。目を開いてるが、眠っているようでもあった。
それを指して花井は云った。
「とうとうシッポを現しましたね、人見さんは。この人はサヨと情交があったんです」
「え?」
さすがに人見も、はじかれたように、顔をあげた。
「僕とサヨが? 何が証拠です?」
「サヨの良人は死ぬ前一月以上もあなたに診てもらっていたでしょう」
「そうです」
花井はニヤリと笑って言った。
「その費用をサヨは何で払いましたか。サヨは自分の身体でしか支払いをしない女です。それとも、あなたにだけはお金で払ったでしょうか」
人見は椅子の肱に両手をかけて、身を起していた。
そして彼はサヨの姿を思いだしていた。サヨは渋皮のむけた女であった。不潔ながらも、変に色ッぽかった。彼女はたしかに彼に支払いをしようとした。云うまでもなく、たしかにその肉体で。彼女はわざと膝をくずして、白い股が見えるように坐っていた。わざと片手を高くあげて後手にまわすと、腋が大きく切れていて、腋の下と腕の附け根と乳房の一部分が見えた。サヨは変な笑い方をして、彼にナガシ目を送った。
彼はその支払いをうけとらなかった。そして、たしかに金も肉体もうけとらなかった筈であるが、それは筈であったというだけのことで、そのサヨの姿はいつまでも彼の脳裡にからみついて生きていた。
いまそれを思いだすと、それは妖しいほど生きていたのだ。まるで彼はその支払いをキレイにうけているような気がした。
そして、そのサヨの姿が益々鮮やかに目にしみてきたとき、彼は椅子の肱にかけた両腕に力をこめて身を浮かそうとして、急に目マイがした。
人見はガックリ前にくずれた。そして、いつもは彼の患者が腰かけている椅子から滑り落ちて、卒倒してしまった。
それを冷やかに見つめていた毛里は、舌打ちして立ち上った。そして云い捨てた。
「此奴が犯人さ」
花井はもっと確信があるらしかった。そして彼は云った。
「僕はサヨが全裸で殺されていたと聞いたときから、犯人はこの人だと見ぬいていました。この男は、女の全裸をたのしむ狂人なんです。この上もない好色漢です。ごらんなさい。この診察室こそ、彼が秘密をたのしむ城だったのです。彼はここで多くの女を全裸にさせて快楽をむさぼっていました」
平戸先生は美しい顔をあからめて、そッとそむけた。なぜなら、彼女もこの部屋で全裸になったことがあるからであった。もっともそれは全裸になって医師に示さざるを得ない余儀ない病気のせいであった。人見に強いられてのことではない。
平戸先生は次第に蒼ざめた。ぞくぞく寒気がした。居たたまらない気持になった。
平戸先生がいそいでイトマをつげて去ると、花井が追ってきた。
「僕、お宅までお送りします」
「いいえ。おかまい下さらないで」
彼女は走った。花井も走った。彼女は次第に真剣に、夢中に走っていた。花井から逃れたかった。しかし、花井は逃さなかった。
彼女は自宅に駈けこむと、花井が同時に駈けこんだ。彼女は息も絶え絶えであったが、花井はなんでもない顔で、息が切れていても、それが当り前の人生だというような落ちつきを示していた。
「僕はあなたに感謝したかったんです。僕が潔白であることを信じていて下さったということ、実にありがたかったです。それにしても、彼がついに無言の告白を示して卒倒したのは、あなたの優しい心に刺戟が強すぎたのですね。お気の毒でした。僕は彼が真犯人だということをあなたに語りたいと思っていましたが、こんなに刺戟的にそれが行われることを望んでいたわけではありません」
彼女はその言葉を聞き流して、無言のまま室内の奥まで歩いて行って、起きてきた母親に云った。
「花井先生に帰っていただいて。殺してやりたいほど憎らしいわ。ぞくぞくするほど汚らしい人生を見せてくれたのよ。なんて、けがらわしい……」
涙があふれてきた。
★
翌日、人見は捜査本部へ喚びだされた。警部の横に毛里が肩をそびやかして控えていた。彼の指金《さしがね》であることは云うまでもない。しかし警部は彼の望むほど強硬ではなかった。
人見はさめざめと泣いた。そして言った。
「僕は混乱しています。疲れています。どうか三日間休息させて下さい。どうしていいか分らないのです。僕の言葉を考えさせて下さい。何を答えていいか分らないのです。その答を探すことができないのです。混乱しているのです。僕は休息が欲しい。さもないと、死にそうです」
「よろしい。混乱がしずまるまで休息をなさるがよい。あなたの部屋に看護人をつけておきますから、安心して眠りなさい」
「うちに看護婦もおりますから」
「ですが看護人の方が用心にもよろしいでしょう」
看護人とは刑事であることが呑みこめてきたので、人見は逆らわなかった。
彼が去る前に、警部は例のトランプを取りだして、
「ちょッとこのトランプのことですが、これはお宅のですか」
「いいえ。僕のところにトランプはなかったと思います」
人見が去ると、毛里が目を怒らせた。
「奴が自殺でもすると、あんたの責任ですぜ。うんと叩いてやるから」
警部はそれに答えなかった。
まもなくフシギなことが起った。トランプがいつの間にやら紛失してしまったのである。犯人が人見である場合には、それが唯一の物的証拠であった。一同は血眼で探した。しかし、どこにも見当らない。その最中に、花井と平戸先生が喚ばれてきた。昨夜の対決の様子を念のため証言してもらうためであった。
トランプの紛失ときいて、平戸先生はふと何事か気がついた様子であった。
「ハートのクインでしたかしら?」
誰にともなくふと訊いた。警部はそれを聞きもらさなかった。
「そうです。ハートのクインです。何かお心当りがあるようですね」
「いえ、つまらないことなんです」
平戸先生はあからんで弁解した。
「子供の詩を思いだしたのです。仁吉という子の六年の時の詩だったと思いますが、校友雑誌にのった詩があるのです。その題がたしかハートのクイン」
「覚えてらッしゃいましたら、おきかせ下さい」
「覚えてはおりませんが、雑誌は家にありますから、お見せしましょうか」
そこで平戸先生は雑誌をとってきてその詩を示した。まさしく題はハートのクインであった。
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オレの魂のハートのクインよ
オレをねむらせてくれよ
きのうは泥棒
きょうは乞食よ
人にも犬にも憎まれ者
昨日も今日も腹がすき
山がだんだん暗くなり
鳥がネグラへ帰るとき
オレがお前のところへ帰る
夜の空に星あれば
星が食べたくなるよ
ねむりたやねむりたや
[#ここで字下げ終わり]
警部は考えこんだ。
「オレの魂のハートのクインかね。シャレた文句だが、まさかその魂がトランプではあるまいな。しかし、とにかく、これは一ツの発見だ。たしか仁吉が来ていたようだが、ちょッと連れてきてくれないか」
しかし、さっきまで見かけた仁吉の姿は、もうなかった。
「まさか仁吉が魂のハートのクインをさらッて行ったのじゃあるまいが、とにかく、妙な暗合だ」
むしろ警部はひょッとすると毛里がトランプを盗んだのではないかと思った。そのトランプと人見を結びつけたのは彼の手柄だ。しかしそれが充分に報われないために、イヤガラセをしたのではないかと疑った。
ともかく唯一の物的証拠ともいうべき重要物件の紛失だから、放ッてはおけない。仁吉の後も追った。そして仁吉を発見した。ところが仁吉のフトコロからハートのクインがポロッと地へ落ちたのである。
★
以下は警部と仁吉の問答である。
「なぜ盗んだのか」
「これはオレのだ」
「
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