夢中に走っていた。花井から逃れたかった。しかし、花井は逃さなかった。
 彼女は自宅に駈けこむと、花井が同時に駈けこんだ。彼女は息も絶え絶えであったが、花井はなんでもない顔で、息が切れていても、それが当り前の人生だというような落ちつきを示していた。
「僕はあなたに感謝したかったんです。僕が潔白であることを信じていて下さったということ、実にありがたかったです。それにしても、彼がついに無言の告白を示して卒倒したのは、あなたの優しい心に刺戟が強すぎたのですね。お気の毒でした。僕は彼が真犯人だということをあなたに語りたいと思っていましたが、こんなに刺戟的にそれが行われることを望んでいたわけではありません」
 彼女はその言葉を聞き流して、無言のまま室内の奥まで歩いて行って、起きてきた母親に云った。
「花井先生に帰っていただいて。殺してやりたいほど憎らしいわ。ぞくぞくするほど汚らしい人生を見せてくれたのよ。なんて、けがらわしい……」
 涙があふれてきた。

          ★

 翌日、人見は捜査本部へ喚びだされた。警部の横に毛里が肩をそびやかして控えていた。彼の指金《さしがね》であることは云うまでもない。しかし警部は彼の望むほど強硬ではなかった。
 人見はさめざめと泣いた。そして言った。
「僕は混乱しています。疲れています。どうか三日間休息させて下さい。どうしていいか分らないのです。僕の言葉を考えさせて下さい。何を答えていいか分らないのです。その答を探すことができないのです。混乱しているのです。僕は休息が欲しい。さもないと、死にそうです」
「よろしい。混乱がしずまるまで休息をなさるがよい。あなたの部屋に看護人をつけておきますから、安心して眠りなさい」
「うちに看護婦もおりますから」
「ですが看護人の方が用心にもよろしいでしょう」
 看護人とは刑事であることが呑みこめてきたので、人見は逆らわなかった。
 彼が去る前に、警部は例のトランプを取りだして、
「ちょッとこのトランプのことですが、これはお宅のですか」
「いいえ。僕のところにトランプはなかったと思います」
 人見が去ると、毛里が目を怒らせた。
「奴が自殺でもすると、あんたの責任ですぜ。うんと叩いてやるから」
 警部はそれに答えなかった。
 まもなくフシギなことが起った。トランプがいつの間にやら紛失してしまったのである。犯人が人見である場合には、それが唯一の物的証拠であった。一同は血眼で探した。しかし、どこにも見当らない。その最中に、花井と平戸先生が喚ばれてきた。昨夜の対決の様子を念のため証言してもらうためであった。
 トランプの紛失ときいて、平戸先生はふと何事か気がついた様子であった。
「ハートのクインでしたかしら?」
 誰にともなくふと訊いた。警部はそれを聞きもらさなかった。
「そうです。ハートのクインです。何かお心当りがあるようですね」
「いえ、つまらないことなんです」
 平戸先生はあからんで弁解した。
「子供の詩を思いだしたのです。仁吉という子の六年の時の詩だったと思いますが、校友雑誌にのった詩があるのです。その題がたしかハートのクイン」
「覚えてらッしゃいましたら、おきかせ下さい」
「覚えてはおりませんが、雑誌は家にありますから、お見せしましょうか」
 そこで平戸先生は雑誌をとってきてその詩を示した。まさしく題はハートのクインであった。

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オレの魂のハートのクインよ
オレをねむらせてくれよ

きのうは泥棒
きょうは乞食よ
人にも犬にも憎まれ者

昨日も今日も腹がすき
山がだんだん暗くなり
鳥がネグラへ帰るとき
オレがお前のところへ帰る

夜の空に星あれば
星が食べたくなるよ
ねむりたやねむりたや
[#ここで字下げ終わり]

 警部は考えこんだ。
「オレの魂のハートのクインかね。シャレた文句だが、まさかその魂がトランプではあるまいな。しかし、とにかく、これは一ツの発見だ。たしか仁吉が来ていたようだが、ちょッと連れてきてくれないか」
 しかし、さっきまで見かけた仁吉の姿は、もうなかった。
「まさか仁吉が魂のハートのクインをさらッて行ったのじゃあるまいが、とにかく、妙な暗合だ」
 むしろ警部はひょッとすると毛里がトランプを盗んだのではないかと思った。そのトランプと人見を結びつけたのは彼の手柄だ。しかしそれが充分に報われないために、イヤガラセをしたのではないかと疑った。
 ともかく唯一の物的証拠ともいうべき重要物件の紛失だから、放ッてはおけない。仁吉の後も追った。そして仁吉を発見した。ところが仁吉のフトコロからハートのクインがポロッと地へ落ちたのである。

          ★

 以下は警部と仁吉の問答である。
「なぜ盗んだのか」
「これはオレのだ」

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