ひッかかったらしく、バスの出発までには現れなかった。なぜ幸いかというと、人見は薄々それが自分のソラ耳であったらしいことを自覚しはじめていたからである。
今朝のバスの中での彼と彼らとの距離はかなりあった。田舎の人は高声で話をしがちではあるが、二人の会話はただそれ一ツが聞きとれただけで、他に一言も聞きとれなかったということは奇妙である。バスにのってしばらくのうちというものは、乗客の会話がみんな彼の噂のように聞えてきて、彼は不安と羞恥に悩みきっていたほどだから、それがソラ耳かも知れないことは彼自身も納得できないことではなかった。
「オレは疲れきっているのだ」
と彼は思った。これを神経衰弱というのであろう。あるいはこのまま廃人になるのかも知れないなぞと切ないことが考えられて、彼の意識は思わず薄れて消えがちであった。
その彼を毛里は蔑んで見ていたが、急に確信してニヤリと笑うと、彼をバスに押しあげて自分も乗りこんだ。その確信は花井の容疑についてではなく、人見の容疑についてであることは云うまでもない。
★
夜の八時ごろバスは人見の村へ戻りついた。人見は疲れきって口もききたくないほどだったが、毛里は寸刻の休みも与えてくれなかった。ただちに花井を連れてきて対決させたのである。
「そんなことを云った覚えはないです」
と、花井は狂気のように猛りたって叫び、また怒った。それに対して人見はもう蚊のなくような声で自説を主張することしかできなかった。
「とにかく平戸先生をよんで訊けば分ります」
主張というよりも、あきらめきったようなかぼそい声であった。
毛里はこれから寝るばかりの平戸先生を強引につれてきた。平戸の証言はこうだった。
「私は仕事に耽っていましたので、お二人のお話が耳につきませんでした」
人見はまるで自分に無関係の話をきいてるように動揺がなかった。ややうつむきがちに、ただ黙々としていた。目を開いてるが、眠っているようでもあった。
それを指して花井は云った。
「とうとうシッポを現しましたね、人見さんは。この人はサヨと情交があったんです」
「え?」
さすがに人見も、はじかれたように、顔をあげた。
「僕とサヨが? 何が証拠です?」
「サヨの良人は死ぬ前一月以上もあなたに診てもらっていたでしょう」
「そうです」
花井はニヤリと笑って言った。
「その費用をサヨは何で払いましたか。サヨは自分の身体でしか支払いをしない女です。それとも、あなたにだけはお金で払ったでしょうか」
人見は椅子の肱に両手をかけて、身を起していた。
そして彼はサヨの姿を思いだしていた。サヨは渋皮のむけた女であった。不潔ながらも、変に色ッぽかった。彼女はたしかに彼に支払いをしようとした。云うまでもなく、たしかにその肉体で。彼女はわざと膝をくずして、白い股が見えるように坐っていた。わざと片手を高くあげて後手にまわすと、腋が大きく切れていて、腋の下と腕の附け根と乳房の一部分が見えた。サヨは変な笑い方をして、彼にナガシ目を送った。
彼はその支払いをうけとらなかった。そして、たしかに金も肉体もうけとらなかった筈であるが、それは筈であったというだけのことで、そのサヨの姿はいつまでも彼の脳裡にからみついて生きていた。
いまそれを思いだすと、それは妖しいほど生きていたのだ。まるで彼はその支払いをキレイにうけているような気がした。
そして、そのサヨの姿が益々鮮やかに目にしみてきたとき、彼は椅子の肱にかけた両腕に力をこめて身を浮かそうとして、急に目マイがした。
人見はガックリ前にくずれた。そして、いつもは彼の患者が腰かけている椅子から滑り落ちて、卒倒してしまった。
それを冷やかに見つめていた毛里は、舌打ちして立ち上った。そして云い捨てた。
「此奴が犯人さ」
花井はもっと確信があるらしかった。そして彼は云った。
「僕はサヨが全裸で殺されていたと聞いたときから、犯人はこの人だと見ぬいていました。この男は、女の全裸をたのしむ狂人なんです。この上もない好色漢です。ごらんなさい。この診察室こそ、彼が秘密をたのしむ城だったのです。彼はここで多くの女を全裸にさせて快楽をむさぼっていました」
平戸先生は美しい顔をあからめて、そッとそむけた。なぜなら、彼女もこの部屋で全裸になったことがあるからであった。もっともそれは全裸になって医師に示さざるを得ない余儀ない病気のせいであった。人見に強いられてのことではない。
平戸先生は次第に蒼ざめた。ぞくぞく寒気がした。居たたまらない気持になった。
平戸先生がいそいでイトマをつげて去ると、花井が追ってきた。
「僕、お宅までお送りします」
「いいえ。おかまい下さらないで」
彼女は走った。花井も走った。彼女は次第に真剣に、
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