た。それがかえっていけなかった。影に怯えて、半病人であった。
四日目に刑事が礼をつくして彼の指紋をとりにきたが、彼の心には無実の人の自信や平静さが全く失われて、ジリジリと追いつめられる真犯人の焦りが彼の心境にほかならなかった。
大都会の老練な刑事なら、真犯人というものはかえって平然と空とぼけて見せるものだ、こんなに度を失って逆上しているのは無実のせいだ、ということを見てくれたかも知れないが、田舎の刑事はそれをアベコベに判断して、真犯人に間違いなしと、去り際の挨拶には益々不気味なほど鄭重に薄気味わるい微笑をのこして去った。人見はただワナワナとふるえるばかりで、ろくに口も利けなかった。
彼の指紋はハートのクインの札に確認された。しかし、まだ容疑者として逮捕されはしなかった。出頭をもとめられて、一応事情を聴取されるに止まった。彼はいくらか冷静をとりもどした。
警察が彼に対して慎重だったのは、一つにはこの容疑の手掛りが警察の働きによって得られたものではなく、地方新聞の特ダネとして先行されたせいもあった。そして新聞がこの特ダネを得たのは無名の投書が発端であることは、その報道で明かにされた。
その投書の主こそ真犯人だ。そしてそれは花井訓導に相違ないと人見は考えた。少くとも、投書の主が花井と判明すれば、それは彼が犯人の証拠だ。事件発生以来の花井の怪しい素振りは、これによって全て氷解するのではないか。
彼は新聞社を訪れて投書を一見しようと考えた。そして早朝のバスで五時間もかかる県都に向って出発した。
そのバスの中では、乗客の全てが彼の容疑の噂をしているように思われて、彼は不安と羞恥に苦しんだ。
そのうちに、ふと意外な会話が耳について、彼は思わず首をのばした。乗客の一人が隣席の連れに話しかけているのだ。
「花井という小学校の先生はサヨの情夫の一人さ」
隣席の男が何と答えたかは聞えなかったし、それからの男の言葉も聞きとれなかった。やっぱりそうかと人見は思った。これで殺人の動機も解けた。
新聞社を訪れ、毛里記者に会って、投書を見せてくれと頼むと、毛里は拒絶した。
「もっとも、あなたが手記を書いてくれれば、お見せしますがね」
「なんの手記です」
「つまり、それ、アンタのアレをやったときの手記さね」
毛里はのけぞるようにしてカラカラと笑った。人見はとびかかって首をしめて
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