山の登り口の侘しい町で降りた。駅前のタクシーに黒滝行きをたのむと、運転手が頭をかいて、
「今日はバスが運転中止でしてね。雨が降るとバスが通れなくなるんですよ。だからハイヤーもムリなんですがね」
「せっかく東京から学術調査に来たんだからムリしたまえよ。こちらは考古学の大先生、この御婦人が助手で、ボクがチンピラ弟子のカバン持ちさ」
 出発前に旅行中の身分を定めてきたのである。万事ロマンチックにいこうという精神であった。
「そうですか。そういうお方なら、この土地のためですから、やりましょう。しかし、黒滝まではハイヤーは登れません。バスの終点から四キロぐらいまでは登れますが、あと一キロほどは歩いていただかねばなりません。相当の山道ですよ」
 バスが運転中止というだけあって、大変な悪路であった。バスのタイヤの跡が一尺以上めりこんでいる。車の速力よりも歩く方が速いところが何箇所もあって、そのたびに先廻りして自動車を待ったり、後を押したりしなければならない。車の行ける限度まで登ると、そこからは瞼しい山道を谷底へ向って下るのである。
「二三丈の大蛇かムカデでも現れそうな道だね。こんな大荷物を背負ってくるんじゃなかったなア。すこし分散しましょうか」
「カバン持ちの義務だから、ダメよ」
 一夫は歯をくいしばって一キロの難路を歩かなければならなかった。ロマンチック用の食糧を山とつみこんだリュックだから、大変な重さなのだ。
「この道は熊や鹿の歩く道ですよ。温泉客の通る道じゃないね。この道幅の細さから考えたって、黒滝温泉てところには、ここ二三年お客が一人も来たことがないんじゃないかと思われますよ」
 まったく、そう推論してもよいような難路であり、小径であった。
 谷底に滝がいくつもあった。そして、そこに一軒の旅館があった。一列にしか歩けない吊橋を渡るとその旅館である。
「オ! 電燈がついてる! 自家発電だ」
「ア! 一組のお客がいるわ!」
 二階の窓から、オバアサンと二十前後の娘と小学生の少年が手をふって迎えている。一夫は眼をかがやかして、
「なかなか美人の娘じゃないですか。ヒナには稀な」
「近くで見ると、どうかしら」
「遠望に限るのかな。油絵だね」
 今までまったく見なれない異様な人相の老人が黙って出迎えた。オデコが広く、鼻とアゴが細く尖っている。そして顔は赤銅色で、鳥類、もしくは天狗、そ
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