の情熱は死んでいた。朝目がさめる。今日も会社へ行くのかと思うと睡《ねむ》くなり、うとうとすると警戒警報がなりひびき、起き上りゲートルをまき煙草を一本ぬきだして火をつける。ああ会社を休むとこの煙草がなくなるのだな、と考えるのであった。
ある晩、おそくなり、ようやく終電にとりつくことのできた伊沢は、すでに私線がなかったので、相当の夜道を歩いて我家へ戻ってきた。あかりをつけると奇妙に万年床の姿が見えず、留守中誰かが掃除をしたということも、誰かが這入《はい》ったことすらも例がないので訝《いぶか》りながら押入をあけると、積み重ねた蒲団《ふとん》の横に白痴の女がかくれていた。不安の眼で伊沢の顔色をうかがい蒲団の間へ顔をもぐらしてしまったが、伊沢の怒らぬことを知ると、安堵のために親しさが溢れ、呆《あき》れるぐらい落着いてしまった。口の中でブツブツと呟《つぶや》くようにしか物を言わず、その呟きもこっちの訊ねることと何の関係もないことをああ言い又こう言い自分自身の思いつめたことだけをそれも至極漠然と要約して断片的に言い綴っている。伊沢は問わずに事情をさとり、多分叱られて思い余って逃げこんで来たのだろう
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