ほどの給料で、その給料をいつまで貰うことができるか、明日にもクビになり路頭に迷いはしないかという不安であった。彼は月給を貰う時、同時にクビの宣告を受けはしないかとビクビクし、月給袋を受取ると一月延びた命のために呆れるぐらい幸福感を味うのだが、その卑小さを顧みていつも泣きたくなるのであった。彼は芸術を夢みていた。その芸術の前ではただ一粒の塵埃《じんあい》でしかないような二百円の給料がどうして骨身にからみつき、生存の根底をゆさぶるような大きな苦悶になるのであろうか。生活の外形のみのことではなくその精神も魂も二百円に限定され、その卑小さを凝視して気も違わずに平然としていることが尚更《なおさら》なさけなくなるばかりであった。怒濤の時代に美が何物だい。芸術は無力だ! という部長の馬鹿馬鹿しい大声が、伊沢の胸にまるで違った真実をこめ鋭いそして巨大な力で食いこんでくる。ああ日本は敗ける。泥人形のくずれるように同胞たちがバタバタ倒れ、吹きあげるコンクリートや煉瓦の屑《くず》と一緒くたに無数の脚だの首だの腕だのが舞いあがり、木も建物も何もない平な墓地になってしまう。どこへ逃げ、どの穴へ追いつめられ、どこで穴もろとも吹きとばされてしまうのだか、夢のような、けれどもそれはもし生き残ることができたら、その新鮮な再生のために、そして全然予測のつかない新世界、石屑だらけの野原の上の生活のために、伊沢はむしろ好奇心がうずくのだった。それは半年か一年さきの当然訪れる運命だったが、その訪れの当然さにも拘《かかわ》らず、夢の中の世界のような遥かな戯れにしか意識されていなかった。眼のさきの全《す》べてをふさぎ、生きる希望を根こそぎさらい去るたった二百円の決定的な力、夢の中にまで二百円に首をしめられ、うなされ、まだ二十七の青春のあらゆる情熱が漂白されて、現実にすでに暗黒の曠野の上を茫々《ぼうぼう》と歩くだけではないか。
 伊沢は女が欲しかった。女が欲しいという声は伊沢の最大の希望ですらあったのに、その女との生活が二百円に限定され、鍋だの釜だの味噌だの米だのみんな二百円の咒文《じゅもん》を負い、二百円の咒文に憑《つ》かれた子供が生まれ、女がまるで手先のように咒文に憑かれた鬼と化して日々ブツブツ呟いている。胸の灯も芸術も希望の光もみんな消えて、生活自体が道ばたの馬糞のようにグチャグチャに踏みしだかれて、乾きあがって風に吹かれて飛びちり跡形もなくなって行く。爪の跡すら、なくなって行く。女の背にはそういう咒文が絡《から》みついているのであった。やりきれない卑小な生活だった。彼自身にはこの現実の卑小さを裁く力すらもない。ああ戦争、この偉大なる破壊、奇妙|奇天烈《きてれつ》な公平さでみんな裁かれ日本中が石屑だらけの野原になり泥人形がバタバタ倒れ、それは虚無のなんという切ない巨大な愛情だろうか。破壊の神の腕の中で彼は眠りこけたくなり、そして彼は警報がなるとむしろ生き生きしてゲートルをまくのであった。生命の不安と遊ぶことだけが毎日の生きがいだった。警報が解除になるとガッカリして、絶望的な感情の喪失が又はじまるのであった。
 この白痴の女は米を炊くことも味噌汁をつくることも知らない。配給の行列に立っているのが精一杯で、喋《しゃべ》ることすらも自由ではないのだ。まるで最も薄い一枚のガラスのように喜怒哀楽の微風にすら反響し、放心と怯えの皺《しわ》の間へ人の意志を受け入れ通過させているだけだ。二百円の悪霊すらも、この魂には宿ることができないのだ。この女はまるで俺のために造られた悲しい人形のようではないか。伊沢はこの女と抱き合い、暗い曠野を飄々《ひょうひょう》と風に吹かれて歩いている、無限の旅路を目に描いた。
 それにも拘らず、その想念が何か突飛に感じられ、途方もない馬鹿げたことのように思われるのは、そこにも亦《また》卑小きわまる人間の殻が心の芯をむしばんでいるせいなのだろう。そしてそれを知りながら、しかも尚、わきでるようなこの想念と愛情の素直さが全然虚妄のものにしか感じられないのはなぜだろう。白痴の女よりもあのアパートの淫売婦が、そしてどこかの貴婦人がより人間的だという何か本質的な掟《おきて》が在るのだろうか。けれどもまるでその掟が厳として存在している馬鹿馬鹿しい有様なのであった。
 俺は何を怖れているのだろうか。まるであの二百円の悪霊が――俺は今この女によってその悪霊と絶縁しようとしているのに、そのくせ矢張り悪霊の咒文によって縛りつけられているではないか。怖れているのはただ世間の見栄だけだ。その世間とはアパートの淫売婦だの妾だの姙娠した挺身隊だの家鴨のような鼻にかかった声をだして喚《わめ》いているオカミサン達の行列会議だけのことだ。そのほかに世間などはどこにもありはしないのに、そのくせこ
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