しないからと言いきかせると、女は怯えた眼附をして何か言訳じみたことを口の中でブツブツ言っているのであった。そのまま三たび目の電気を消すと、今度は女はすぐ起き上り、押入の戸をあけて中へ這入って内側から戸をしめた。
この執拗なやり方に伊沢は腹を立てた。手荒く押入を開け放してあなたは何を勘違いをしているのですか、あれほど説明もしているのに押入へ這入って戸をしめるなどとは人を侮辱するも甚しい、それほど信用できない家へなぜ逃げこんできたのですか、それは人を愚弄し、私の人格に不当な恥を与え、まるであなたが何か被害者のようではありませんか、茶番もいい加減にしたまえ。けれどもその言葉の意味もこの女には理解する能力すらもないのだと思うと、これくらい張合のない馬鹿馬鹿しさもないもので女の横ッ面を殴りつけてさっさと眠る方が何より気がきいていると思うのだった。すると女は妙に割切れぬ顔附をして何か口の中でブツブツ言っている、私は帰りたい、私は来なければよかった、という意味の言葉であるらしい。でも私はもう帰るところがなくなったから、と言うので、その言葉には伊沢もさすがに胸をつかれて、だから、安心してここで一夜を明かしたらいいでしょう、私が悪意をもたないのにまるで被害者のような思いあがったことをするから腹を立てただけのことです、押入の中などにはいらずに蒲団の中でおやすみなさい。すると女は伊沢を見つめて何か早口にブツブツ言う。え? なんですか、そして伊沢は飛び上るほど驚いた。なぜなら女のブツブツの中から私はあなたに嫌われていますもの、という一言がハッキリききとれたからである。え、なんですって? 伊沢が思わず目を見開いて訊き返すと、女の顔は悄然《しょうぜん》として、私はこなければよかった、私はきらわれている、私はそうは思っていなかった、という意味の事をくどくどと言い、そしてあらぬ一ヶ所を見つめて放心してしまった。
伊沢ははじめて了解した。
女は彼を怖れているのではなかったのだ。まるで事態はあべこべだ。女は叱られて逃げ場に窮してそれだけの理由によって来たのではない。伊沢の愛情を目算に入れていたのであった。だがいったい女が伊沢の愛情を信じることが起り得るような何事があったであろうか。豚小屋のあたりや路地や路上でヤアと云って四五へん挨拶したぐらい、思えばすべてが唐突で全く茶番に外ならず、伊沢の前に白痴の意志や感受性や、ともかく人間以外のものが強要されているだけだった。電燈を消して一二分たち男の手が女のからだに触れないために嫌われた自覚をいだいて、その羞しさに蒲団をぬけだすということが、白痴の場合はそれが真実悲痛なことであるのか、伊沢がそれを信じていいのか、これもハッキリは分らない。遂には押入へ閉じこもる。それが白痴の恥辱と自卑の表現と解していいのか、それを判断する為の言葉すらもないのだから、事態はともかく彼が白痴と同格に成り下る以外に法がない。なまじいに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。白痴の心の素直さを彼自身も亦《また》もつことが人間の恥辱であろうか。俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間共の思考の中でうすぎたなく汚れ、虚妄の影を追い、ひどく疲れていただけだ。
彼は女を寝床へねせて、その枕元に坐り、自分の子供、三ツか四ツの小さな娘をねむらせるように額の髪の毛をなでてやると、女はボンヤリ眼をあけて、それがまったく幼い子供の無心さと変るところがないのであった。私はあなたを嫌っているのではない、人間の愛情の表現は決して肉体だけのものではなく、人間の最後の住みかはふるさとで、あなたはいわば常にそのふるさとの住人のようなものなのだから、などと伊沢も始めは妙にしかつめらしくそんなことも言いかけてみたが、もとよりそれが通じるわけではないのだし、いったい言葉が何物であろうか、何ほどの値打があるのだろうか、人間の愛情すらもそれだけが真実のものだという何のあかしもあり得ない、生の情熱を託するに足る真実なものが果してどこに有り得るのか、すべては虚妄の影だけだ。女の髪の毛をなでていると、慟哭《どうこく》したい思いがこみあげ、さだまる影すらもないこの捉《とら》えがたい小さな愛情が自分の一生の宿命であるような、その宿命の髪の毛を無心になでているような切ない思いになるのであった。
この戦争はいったいどうなるのであろう。日本は負け米軍は本土に上陸して日本人の大半は死滅してしまうのかも知れない。それはもう一つの超自然の運命、いわば天命のようにしか思われなかった。彼には然《しか》しもっと卑小な問題があった。それは驚くほど卑小な問題で、しかも眼の先に差迫り、常にちらついて放れなかった。それは彼が会社から貰う二百円
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