るッと庭をまわって奥さんの部屋の窓をたたくんです。そしてね、奥さんから何かを受けとって何かをやったんです」
「それで」
「そのとき爺さんは低いつぶれ声で外国語の咒文のようなことを云ったんです。ラウオームオー。そうきこえたんです」
「ラウオームオー」
「そうなんです。長くひっぱる発音でそう云ったんです。たしか、そうきこえましたぜ」
「奥さんは?」
「何も答えません。品物を改めて窓をとじてしまったのです」
「品物の形は?」
「それは分りませんが本か雑誌のようなものでしたね。爺さんの受けとったのもやはりそんなものでしたが、あとで分ったことでしたが、これは札束でした。二百万円です。この日三百万円の火災保険がはいったものですからその一部分です」
「どうしてそれが分った?」
「今朝になって婆さんが堂々と云うんですよ。奥さまから退職手当に二百万円いただいたから郷里へ帰って小さな店をひらこうなんてね。それをきくと浩之介旦那が血相かえて奥さんの部屋へビッコをひきずっていきましたがね。ボンヤリと戻ってきました。奥さんからもたしかに退職手当に与えたものだと云われたのでしょう。ゆすっていたのはアイツか、信じられない、と呻くようにつぶやいて、どこかへ出かけましたのです。でね、ぼくは荷物をまとめて逃げだしてきたんですよ」
「意外きわまる話だね」
「あのウチにはまた何か起りますよ。とても怖しくて居たたまらなくなったんです」
 完全に信じうるものをも疑えというのが、これも探偵小説の第一課だ。爺さんのアリバイは完全だった。疑う余地がなかった。しかし人為的に完全なアリバイをつくることも不可能ではないはずだ。
 辻は乃田家へ急いだ。爺さんはよいゴキゲンで引越しの荷造りをしているところだ。辻の顔を見ると爺さんが先に声をかけた。
「やア、新聞屋さん。あの小僧の注進がありましたかい」
「まさにその物ズバリだね。二百万円の退職手当だってね」
「そうなんです。なんしろこちらへ御奉公してかれこれ三十七八年ですからね。よそはそれ以上の退職金をだしますよ」
「そんなことを人の耳に入れなくたっていいじゃないか」
「自慢話ですよ。正式にいただいたものを隠すことはないですよ」
「真夜中に窓の戸をたたいて秘密にいただき物をしてもかい」
「下郎は庭から廻るものと相場がきまったものですよ」
 爺さんの言葉や顔にはおどろいた様子がない。小僧に見られたことに気がついていたのだ。奥さんにはとうとう対面できなかったが、女中さんに伝言して返答をきいてもらうと、たしかに退職手当二百万円やりました。永年の勤続ですから、と爺さんと同じような返事であった。深夜に窓を叩いて金を渡しても退職手当ですかときいてもらうと、たしかに退職手当ですと返事があって、それ以上はノーコメントであった。
 辻はアンマ宿へ自動車を走らせてオツネサンをさらうように押しこんで爺さんの家へ運んできた。
「オツネサン、この声に聞き覚えがないかい。爺さんと話をしてよく聞きわけておくれ」
「アハハ。私はね、あの晩は九時から十二時まで八百常で将棋をさしてましたよ。オツネサンの聞き覚えのはずがないよ」
 オツネはせつなげにションボリ頭をふって、
「低くってただ一言のききとれないような声だからね。もう無理ですよ」
「そう、そう。まさに、その通り、オツネサンのきいた男は何と云ったね」
「いまに後悔しますよ、と云うんだけど」
「では私がそれをやってお目にかけよう。低い声で、いまに後悔しますよ、とね」
 オツネサンは頭をふってみせた。無理だ、わからないという意味だ。辻はジダンダふんだが及ばなかった。

        *

 辻はしかしこれぞ特ダネの気持で長文の記事を送った。しかしそれは地方版の隅っこに二段の小さい記事でのせられただけだった。この事件もそろそろ忘れられようとしていた。三十六七年も夫婦二人で勤めた者が退職金二百万円はさのみ騒ぎたてることもないがというように訂正され、深夜に窓の戸を叩いての授受は故意に怪しまれることをしているだけにこれが別れの思い出の茶番のようなことも考えられ、ゆすりにしてはもっとさりげない方法があるはずだ、という批判がつけ加えられていた。
 この記事にくさっていると、支社へ姿を現したのは伊勢崎九太夫である。彼は熱海の旅館の主人だが、昔は名高い奇術師で、非常に探偵眼のすぐれた人物で難事件を一人で解決したこともあるから、辻はこの事件が起ってからすでに三度も九太夫の意見をききに行っていた。そのたび九太夫は自分の聞きたいことを根掘り葉掘りきくだけで返事をしたことがなかったのである。
「どうも、あの記事は残念でしたね。新聞記者は書きたがる悪癖があっていけませんよ。ああいうことは伏せておいて様子を見るのが賢明です」
「しかしそれを教えにきて下さったのは曰くがあるからでしょう。あれを退職金授受の思い出の茶番にされて泣くにも泣けない気持ですよ」
「それはあなたの名文の罪もあるね。外国語の咒文のようなはひどすぎますよ」
「じゃア何ですか」
 九太夫はもう辻の問いには答えを忘れ、根掘り葉掘りききはじめた。幸い小僧を泊らせておいたので、これもよびだして九太夫の質問に応じさせた。
「君が後をつけたことが爺さんに知れたらしいが、それを気づかなかったかね」
「いま考えると婆さんが見ていたのだと思うんです。家の前を通りますから」
「茶番のような受け渡しをやってる時は気づかれていない確信があるのだね」
「そうです。その時は絶対に気附かれていません」
「窓の戸を叩いた音はどれぐらい。かなりの音かね」
「かなりの音です。聞き耳をたててると二三十間さきでも聞きとれる音ですね」
「跫音は?」
「これも忍び足ですが音はわかりました」
「それでは窓をあける音は?」
「これはかなりの音ですよ」
「窓をあけた幅は?」
「四五寸ですね」
「部屋にあかりはついていたね」
「そう明るくはありません。小さな豆電球のスタンドかと思いました」
「奥さんはずッと無言だね」
「そうです」
「ヤ、いろいろ分りました。それから浩之介さんのことですが、事件の晩十一時ごろ道で会って一しょに帰ってきたのは本当ですか」
「それはまちがいありません。熱海銀座と駅から山を降りてくる道のぶつかるところがあるでしょう。ちょうどあのへんを山手の方へ歩きかけていたのです。あのへんから乃田さんの邸まではまだかなりの道です。それで登り坂ですから、ビッコのあの人の足では相当の時間がかかるんですよ」
「火事の時はねていたのかね」
「ええ、消防車がきて叩き起されるまで知らずにいました」
「それでいろいろ分りかけてきたが、そんなことをした理由はなぜだろうね」
「ぼくがですか」
「失敬失敬。むろん君ではない。ある人がだよ。むずかしいことをしているわけがね」
「それは誰のことですか」
 と辻が声をはずませてきいたが、九太夫はそれに答えずに、
「とにかく今晩、夜が更けてから実験してみましょう。十二時ごろ拙宅へお越し下さい。小さな実験です。これが思うようにいっても、まだのみこめないことが山ほどあるんですよ。事件解決は一歩また一歩ですよ」
 九太夫はこう約束して帰った。その晩の十二時ごろに辻は九太夫を訪問した。九太夫は彼を待っていたが、
「ここは海沿いで海の音が耳につくから山手の静かな宿をとっておきました。もう仕度もできております」
「海沿いではいけないのですか」
「そうなんです。音に関する実験ですから」
 山手の閑静な旅館で車を降りると、九太夫は階下の静かな部屋へ辻を案内し、
「この部屋をさがすのに苦労しましたが、だいたいに条件はよろしいようです。あなたはそのへんで黙って見ていて下さい。声をだしても身動きしてもいけませんよ。実験中はあらゆる音をつつしんで下さい。私はまずこの廊下のイスに腰かけ隣室の廊下へ通じる潜り戸をあけておきます。さて、ここへオツネサンをよびますが、あの女は自分ではカンのよいメクラだと思いこんでいますが、メクラは目が見えなくて他との比較を知らないのですよ。オツネサンは自分はカンがよいから一人で歩けると口癖に云いたがりますが、カンは大いによくないね。廊下の壁に沿うてノロノロノロノロ歩いてくるのですよ。便所なぞへ行くと何かに突き当ったり四苦八苦ですよ。先日私が一人言を云ったとき、オヤどなたかいらッしゃるんですかと聞くんです。ではいま呼びますからこれから暫時物音を封じて待っていて下さい」
 まもなくオツネは壁にそうてノロノロ歩いてきたらしく戸をあける時まで跫音もしなかったが、戸をあけて、
「こんばんは」
「ちょッとその部屋で待っといで。いますぐ話が終るから」
「ハイ」
「どうも君はいけませんね。今夜はこの静かな部屋でアンマをとって休息したいと思っていたのに、案内もこわず隣室から潜り戸をあけてくるとは。すぐ帰っていただきたいと思いますね」
「それはとんだ失礼をいたしました。そういうこととは知りませんでとんだ失礼を。では、おやすみ」
「おやすみなさい」
 九太夫の一人二役だ。声とアクセントをちょッとちがえただけで、さのみ変化のある一人二役ではなかった。九太夫はイスを立って、歩かずに後方へ手をのばしてガラガラと潜り戸をしめた。
「さア、さア、これで無礼な客が退散しました。オツネサン、おはいり」
「ハイ」
 とオツネが部屋へはいった。
「オツネさん、いまのお客を知っているかね」
「さア、声だけでは分りませんが、私の知ってる人ですか。この旅館へくる人でね。それじゃア小田原の河上さんでしょう。ナマリで分りますよ」
「あの人は跫音のない人だね。出て行く跫音がきこえたかい」
「戸がしまったから分りましたが、恐縮して忍び足で逃げたんですね。あの人らしくもない」九太夫はクツクツ笑いだした。そして辻に呼びかけて、
「ね、辻さん。私もこんなことだと思いましたよ。せんだって私の一人言を他人の声とカンちがいしたのを見た時からこの実験の結果だけは分っていたんです」
「あら辻さんですか。部屋を出なかったのね。道理で跫音がきこえないはずだ」
「なるほど面白い実験でしたね。しかし益※[#二の字点、1−2−22]わけが分らなくなりました」
「それなんですよ。あの奥さんは能もやれば長唄もやる。声の変化は楽にだせる人です。男の作り声ぐらいは楽なんですね」
 オツネは辻以上にびっくりして、しょげてしまった。「それじゃアあのとき私がきいたのは奥さんの作り声ですか」
「そうだと思うね。だからお前さんは戸のしまる音はきいても、戸のあく音はきかなかったと思うね。おんなにノロノロと壁づたいに長の廊下を道中してくれば戸のあく音はきこえるはずだが、つまり戸はたぶんお前さんが別館をでる前からあいてたのだ。そしてお前さんを待っていたのだろう。戸がしまれば立ち去る音はきこえなくともどうでもいいように、これを蛇頭にして蛇尾と云うのかも知れないがオツネサンにとっては龍の胴だけあれば思考が満足してるんだね。そこがお前さんのヒガミの少い気立てのよいところだがね」
「私ゃはずかしくなりましたよ」
「まアさ。そこがオツネサンの値打だね。人にだます気持があれば必ずだまされるお人好しなんだから」九太夫はこうオツネを慰めたが、さて辻に向って、
「さて今晩はこの静かな旅館で考えてみようじゃありませんか。こういうことがなぜ行われたか。あなたのお部屋は小田原の河上さんの部屋に用意ができておりますよ」

        *

 新聞記者だから辻は結論をせっかちにだす。目がさめると大体見当がついている。
 最も時間のかかったのが外国語の咒文の件であるが、オツネの錯覚と同じようにこれも小僧に錯覚ありと見るべきだ。結論がでるとせっかちだ。すぐにも報道にかからずにいられないのが持ち前の性分で、九太夫の起きだすのを待ちかまえ、さっそくその前に大アグラで坐りこんで、「この事件は爺さんが奥さんの依頼でやった殺人ですね」
「なるほど」
「奥さんは後日に至って爺さんにゆすられることを察していたから天性のお喋り
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング