がきこえたかい」
「戸がしまったから分りましたが、恐縮して忍び足で逃げたんですね。あの人らしくもない」九太夫はクツクツ笑いだした。そして辻に呼びかけて、
「ね、辻さん。私もこんなことだと思いましたよ。せんだって私の一人言を他人の声とカンちがいしたのを見た時からこの実験の結果だけは分っていたんです」
「あら辻さんですか。部屋を出なかったのね。道理で跫音がきこえないはずだ」
「なるほど面白い実験でしたね。しかし益※[#二の字点、1−2−22]わけが分らなくなりました」
「それなんですよ。あの奥さんは能もやれば長唄もやる。声の変化は楽にだせる人です。男の作り声ぐらいは楽なんですね」
オツネは辻以上にびっくりして、しょげてしまった。「それじゃアあのとき私がきいたのは奥さんの作り声ですか」
「そうだと思うね。だからお前さんは戸のしまる音はきいても、戸のあく音はきかなかったと思うね。おんなにノロノロと壁づたいに長の廊下を道中してくれば戸のあく音はきこえるはずだが、つまり戸はたぶんお前さんが別館をでる前からあいてたのだ。そしてお前さんを待っていたのだろう。戸がしまれば立ち去る音はきこえなくともどうでもいいように、これを蛇頭にして蛇尾と云うのかも知れないがオツネサンにとっては龍の胴だけあれば思考が満足してるんだね。そこがお前さんのヒガミの少い気立てのよいところだがね」
「私ゃはずかしくなりましたよ」
「まアさ。そこがオツネサンの値打だね。人にだます気持があれば必ずだまされるお人好しなんだから」九太夫はこうオツネを慰めたが、さて辻に向って、
「さて今晩はこの静かな旅館で考えてみようじゃありませんか。こういうことがなぜ行われたか。あなたのお部屋は小田原の河上さんの部屋に用意ができておりますよ」
*
新聞記者だから辻は結論をせっかちにだす。目がさめると大体見当がついている。
最も時間のかかったのが外国語の咒文の件であるが、オツネの錯覚と同じようにこれも小僧に錯覚ありと見るべきだ。結論がでるとせっかちだ。すぐにも報道にかからずにいられないのが持ち前の性分で、九太夫の起きだすのを待ちかまえ、さっそくその前に大アグラで坐りこんで、「この事件は爺さんが奥さんの依頼でやった殺人ですね」
「なるほど」
「奥さんは後日に至って爺さんにゆすられることを察していたから天性のお喋りで秘密の保てないオツネにわざとそれを聞かしておいたんだと思いますよ。爺さんのアリバイは十二時までですから奥さんの作り声の件が解決すればアリバイはないわけです。火事は一時四十何分かに発見されているんですからね。つまり奥さんの作り声は容疑者のアリバイをみだす役目も果していたのです」
「その着眼は面白いですね」
「そこで爺さんは大役を果してしかもカバンの百万円には手をつけないような殊勝なことも果しました。その百万円をトリック代として二百万円は当然でしょう。ところが奴め稚気があるから、わざと窓の外から戸をたたいてラウオームオー、つまりカラ証文とイヤガラセを云ったんじゃないですか」
「カラ証文。いいところを見てますね」
「カラ証文の受取りとひきかえに苦りきった奥さんが二百万円渡した。これはたしかに渡さなければならぬ金です。どんなにからかわれてもこの金をやって追いだす以外に手がなかった」
「そうですか。それではもう一度、あなたの支社へ参上してあの小僧に一言きいてみることに致しましょう」
「まさか小僧が犯人ではありますまいね」
「むろんそうですが、小僧にきいてみることが一ツあるのです」二人は辻の支社へついた。さっそく小僧をよんで九太夫がきいた。それは実に思いがけない質問であった。
「あの邸内で新聞を早く読むのは誰だね」
小僧もびっくりして即答できなかったほどである。
「そうですねえ。ぼくは夜学で夜ふかしして朝が早い方ではありませんし、奥の人たちもみなおそいんです。結局新聞の投げこまれるのが爺さんの窓口からですし、あの夫婦は早起きだからぼくらが起きる前に面白そうな記事は全部暗記しているほどですよ」
「あの邸に辻さんの新聞もはいっていたろうね」
「むろんです。奥さんは株をやってますからたいがいの新聞は目を通していました」
九太夫は我意を得たりとうなずいて、
「これですよ。解決の緒口は。爺さんは事件の翌々日も誰より先に新聞を読んだに相違ないのは毎日の習慣ですから当然考えることができます。あなたがあの朝の記事で報道するまでは警察も他の新聞もオツネのことを忘れていました。過失死か自殺と考え、アンマの話なぞ聞く必要もないと思っていたわけです。だから辻さんだけがその前の日に取材にきても警察がほぼ過失と定めていることだし、犯人もさほど気にしてはいなかったでしょう。特に犯人は一ツのことを知らな
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