土の中からの話
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)嗷々《ごうごう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|総《ふさ》
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私は子供のとき新聞紙をまたいで親父に叱られた。尊い人の写真なども載るものだから、と親父の理窟であるが、親父自身さう思ひこんでゐたにしても実際はさうではないので、私の親父は商売が新聞記者なのだから、新聞紙にも自分のいのちを感じてゐたに相違ない。誰しも自分の商売に就てはさうなので、私のやうなだらしのない人間でも原稿用紙だけは身体の一部分のやうに大切にいたはる。先日徹夜して小説を書きあげたら変に心臓がドキドキして息苦しくなつてきたので、書きあげた五十枚ほどの小説を胸にあててみた。夏のことで暑いからふと紙のつめたさを胸に押し当ててみる気持になつただけのことであるが、心臓の上へ小説を押し当ててゐると、私はだらしなくセンチメンタルになつて、なつかしさで全てが一つに溶けてゆくやうな気持になつた。理窟ではないので、自分の仕事の愛情はさういふものだ。尤も書きあげて一週間もたつと、今度は見るのが怖しいやうな気持になり、題名を思ひだしてもゾッとするやうになつてしまふ。
あるとき友達の画家が、談たまたま手紙一般より恋文のことに至り、御婦人に宛てる手紙だけは原稿用紙は使はない、レター・ペーパーを用ひる、原稿用紙は下書きにすぎないから、と言ふ。私は初め彼の言葉が理解できなかつたほどだ。これも商売の差だけのことで外に意味はない。私にとつて原稿用紙はいのちの籠つたものであり、レターペーパーなどはオモチャでしかない。
商人が自分の商品に愛着を感じるかどうか、もとより愛着はあるであらうが、商ふといふことと、作るといふこととは別で、作る者の愛着は又別だ。さういふ中で、農民といふものはやつぱり我々同様、作者なのであるが、我々の原稿用紙に当るのがつまりあの人々では土に当るわけで、然し原稿用紙自体は思索することも推敲することもないのに比べると、土自体には発育の力も具はつてゐるので、我々の原稿用紙に更に頭脳や心臓の一かけらを交へた程度にこれは親密度の深いものであるらしい。その上に年々の歴史まであり、否、自分の年々の歴史のみではなく、父母の、その又父母の、遠い祖先の歴史まで同じ土にこもつてゐるのであるから、土と農民といふものは、原稿用紙と私との関係などよりはるかに深刻なものに相違ない。尤も我々の原稿用紙もいつたんこれに小説が書き綴られたときには、これは又農民の土にもまさるいのちが籠るのであるが、我々の小説は一応無限であり、又明日の又来年の小説が有りうるのに比べて土はもつとかけがへのない意味があり、軽妙なところがなくて鈍重な重量がこもつてゐる。
土と農民との関係は大化改新以来今日まで殆ど変化といふものがなく続いてをり、土地の国有が行はれ、農民が土の所有権と分離して単に耕作する労働者とならない限り、この関係に本質的な変化は起らぬ。農の根本は農民の土への愛着によるもので、土地の私有を離れて農業は考へられぬ、といふのは過去と現在の慣習的な生活感情に捉はれすぎてゐるので、むしろ土地の私有といふことが改まらぬ限り農村に本質的な変化や進化が起らないといふことが考へられるほどだ。
農村自体の生活感情や考への在り方などが、たとへそれがどのやうに根強く見えやうとも、その根強さのために正しいものだの絶対のものだのと考へたら大間違ひだ。江戸時代の田中丘隅といふ農政家が農民の頑迷な保守性を嘆じて「正法のことといへども新規のことはたやすく得心せず、其国風其他ならはしに浸みて他の流を用ひず」と言ひ、更に嘆じて「家業の耕作、田地のこしらへ、苗代より始めて一切の種物下し様に至るまで、ただ古来より仕来る事を用ひて、善といへども、悪を改めず」と嘆息してゐる。
このことは遠い古代からすでにさうで、平安朝の昔、大伴今人といふ国守が山を穿つて大渠をひらいたとき、百姓はこれを無役無謀な工事だといつて嗷々《ごうごう》と批難したが、工事を終りその甚大な利益を見るに及んで嘆賞して伴渠と名づけて徳をたたへたといふ。又、淳和《じゅんな》天皇の頃、美濃の国守の藤原高房といふ人があつて、安八郡のさる池の堤がこはれて水がたまらず潅漑の用を果してをらぬのを見て、修築を企てた。すると土民は口をそろへて、この池は神様が水を嫌つてゐるのだから水を溜めない方がいいのだと騒ぎだしたが、神様が怒つて殺すといふなら俺はいつでも殺されてやるさ、と高房は断乎として堤を築かせたところ、工事終つて潅漑の便利に驚いた土民は改めて嘆賞したといふ。平安朝の昔からこの式で、今に至るもなほ、農民は常に今居る現実を善とし真とし美とし、これを改良することを不善とする。改良の精神自
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