いことがあるよ、隣の三上村の薬王寺では飲みきれないほど酒があるといふことだから借りておいでな。なに、働いて、あとで返せばいいのだから。なるほど、お寺なら慈悲があるから頼めば貸してくれるだらう、と早速でかけてかけあつてみると、よからう、その代り利息は倍にして返すのだよ、と二斗の酒をかしてくれた。
とどこほりなく婚礼がすんだが、麿の働きでは二斗の酒が返せない。お寺から催促のたびになんとかごまかして年月を経てゐるうちに病気になつて寝こんでしまつた。このへんで医者といへば薬王寺の坊主の薬のやつかいにならねばならぬから女房がでかけて行つて頼みこんで坊さんに往診して貰ふ。坊さんが来てみると、ひどい重病で、とても助かる見込みがない。今日か明日かといふ容態であつた。
「これはとても駄目だ。もう薬をあげたところで、どうなるものでもない。定命は仕方のないものだから、心静かに往生をとげるがよい。それに就ては、お前さんの婚礼に二斗のお酒が貸してあつたが、あれを返さずに死なれては困る。さればといつて、見廻したところお前さんのところにはカタにとるやうな品物もないが、それでは仕方がないから、死んでから牛に生れ変つておいで」
「なんで牛に生れなければなりませんか」
「それは申すまでもない。この容態ではとてもこの世で酒が返せないのだから、牛に生れ変つてきて、八年間働かねばなりませんぞ。それはちやんとお釈迦様が経文に説いておいでになることで、物をかりて返せないうちに死ぬ時は、牛に生れてきて八年間働かねばならぬと申されてある」
「たつた二斗の酒ぐらゐに牛に生れて八年といふのはむごいことでございます。どうか、ごかんべん下さいまして」
「いやいや。飛んでもないことを仰有《おっしゃ》るものではない。ちやんと経文にあることだから、仕方がないと思はつしやい。それとも地獄へ落ちて火に焼かれ氷につけられる方がよろしいかの。八年ぐらゐは夢のうちにすぎてしまふ。経文にあることだから、牛になつて八年間は働いてもらはねばならぬ」
「お前さん経文にあることだから仕方がないよ。元々お前さんがだらしがなくて返せなかつたのだから、牛に生れ変つて返さなければいけないよ」
「さうか。なんといふ情ないことだらう。こんなことになるぐらゐなら、もつと早く働いて返せばよかつた」
男はハラハラと涙を流して悲しんだが、仕方がない。その晩、息をひきとつた。
翌朝になつて小坊主が門前を掃きにくると牛が一匹しよんぼりしてゐる。別に縄につながれてもゐないのに、お寺の門前にしよんぼりして動かないから和尚に告げた。ああ、さうか、よしよし、それではゆふべ死んだものとみえる。それはウチの牛だから今日から野良に使ふがよい。オヤ、さうですか。和尚さまが買つておいでになりましたのですか。マア、さうぢや。どれ、ひとつ、見てやらう、と門前へ出てみると、大変大きなおとなしさうな赤牛だから、うむ、これなら申分なからう、野良へつれてゆきなさい、と寺男をよんで引渡した。
ところが、この寺男がなんとも牛使ひの荒つぽい男で、すこし怠けても情け容赦なくピシピシ打つ。山へ行けば背へつめるだけの木をつませて、それで疲れてちよつと立止つただけでも大きな丸太で力一ぱいブンなぐる。ゆつくり草もたべさせず、縄をつかんで鼻をぐいぐいねぢりまはして引廻すものだから辛いこと悲しいこと、それでも五年間は辛抱した。そして、たうとう、たまらなくなつてしまつた。
その晩から、和尚は毎晩のやうに、夢の中で必ず牛に蹴とばされる。どうやらスヤスヤ寝ついたと思ふと、どこからともなく牛がニューとでてくるのだが、ニューとでてくる、アッと思ふともうダメなので、逃げる力に逃げられず追ひつめられて、そのときキンタマをいやといふほど蹴とばされるのである。その痛いこと、全身ただ脂の汗、天地くらむ、ムムム……蹴られぬさきに蹴られる場所も痛さも分るその瞬間の絶望がなんともつらい。
これが毎晩々々のことだ。和尚もいまいましくて仕方がない。夢のことだから別にキンタマが腫れあがりもしないけれども、憎らしいことだから、ある日牛を見に野良へでると、牛は寺男にひき廻されておとなしく働いてをり、和尚を認めると、急にしやくりあげてポロポロと泣きだした。それが如何にも悲しげに気の毒な様子であるから、和尚も不愍《ふびん》になつて、まだ三年あるのに、もつたいないことだと思つたが、毎晩キンタマを蹴られるのも迷惑な話だから、まア、このへんで勘弁してやるのも功徳といふものだらう、と考へた。
「まだ三年もあるのだが、見れば涙など流して不愍な様子だから、特別に慈悲をしてやらう。こんな慈悲といふものは、よくよく果報な者でないと受けられるものではないが、それといふのもお前の運がよかつたのだから、幸せを忘れぬがよい。さア、好
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング