多いのだが、その農民の個人々々の損得観念、損得勘定の合計が日本の歴史を動かしてゐる、いぢめられ通しの農民には、上からの虐待に応ずるには法規の目をくぐるといふ狡猾の手しか対処の法がないので、自分が悪いことをしても、俺が悪いのではない、人が悪くさせるのだと言ふ。何でも人のせゐにして、自主的に考へ、自分で責任をとるといふ考へ方が欠けてをり、だまされた、とか、だまされるな、と云つて、思考の中心が自我になく、その代り、いはば思考の中心点が自我の「損得」に存してゐる。自分の損得がだまされたり、だまされなかつたり、得になるものは良く、損になるものは悪い。損得の鬼だ。これが奈良朝の昔から今に至る一質した農村の性格だ。
いつだつたか、結城哀草果氏の随筆で読んだ話だが、氏の村のAといふ農民が山へ仕事に行くと林の中に誰だか首をくくつてブラ下つてゐるものがある。別に心にもとめず一日の仕事を終へて帰つてくると、その翌日だか何日か後だか今度はBといふ農民がやつぱり山へ仕事に行つて例のぶら下つた首くくりを見てこれも気にもとめず一日の仕事を終へて帰つてくる。ある日二人が会つて、山の仕事の話をしてゐるうちに、ふと首くくりを思ひだして、ああ、さうさうあんたもあれを見たのか、と語りあつて、又、それなり忘れてしまつたといふ。結城哀草果氏は、この話を、農民が世事にこだはらず、天地自然にとけこんで、のんびりしてゐる例として、又、さういふ思想的な扱ひ方をしてゐるのである。
農村の文化人といふものは、全国おしなべて大概かういふ突拍子もない考へ方で農村を愛してゐるのが普通で、自分自身農村自身の悪に就ては生来の色盲で、そして農村は淳朴だなどと云つて、疑ることなどは金輪際ない。
奈良朝の昔から農村の排他思想といふものはひどいもので、信頼するのは部落の者ばかり、たまたま旅人が行きくれても泊めてはやらず、死んだりすると、連れの旅人に屍体を担がせて村境へ捨てさせて、連れの旅人も蹴とばすやうに追ひだしてしまつたものだ。
さはらぬ神にたたりなし、と称して、山の林に首くくりがブラブラしてゐても、もしや生き返りやしないか、下して人工呼吸でもしてやらうなどとは考へずに、まつさきに考へるのは、よけいな事にかかはり合つて迷惑が身に及んではつまらない、といふことだ。都会の人間なら、下して助けようとしてみるか、怖くなつて逃げだして申告
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