かげでとんだ目にあふところだつた、落ちるうちに木の枝と葉の繁みの中へはまりこんで手をだしたら初めの技は折れてつかみ損ねたが、二本目、三本目にうまくひつかかつて木の胯の上へうまいぐあひに乗つかることができたのさ。それにしても平茸はいつたい何事ですか。いや、それがさ、木の胯へうまいぐあひに乗つかつてみると、その木にいつぱい平茸が生えてゐるのだ、見すてるわけに行かぬから手のとどくところはみんな取つて旅籠につめたが、手のとどかぬところにはまだいつぱい残つてゐる。旅籠につめたのなどはまことにただの一部分で、いやはや、何とも残念だ、実にどうもひどい損をしてきた、心残り千万な、といまいましがつてゐる。郎党どもが笑つて、命が助かつておまけにいくらかでも平茸をついでにとつて損などとは、と言ふと、殿様が叱りつけて、馬鹿を言ふものではないぞ、宝の山へ這入つて空しく引上げる者があることか、受領《ずりょう》(国司)は到る所に土をつかめと言ふではないか、と言つたさうだ。
この話は昔から国司や地頭の貪慾を笑ふ材料に使はれてをつて、今昔物語にも、このあとに尚数行あり、郎党がこれに答へて、いかにも御尤も、我々|下素《げす》下郎と違つてさすが国を司るほどの御方は命の大事の時にも慌てず騒がずかうして物をつかんでいらつしやる、と言つておだてながら皮肉る言葉がつけたしてあるのだ。
地頭は到るところの土をつかめ、といふのは愛嬌のある表現だが、この国司も愛嬌がある。今昔物語の作者の批判はつまり農民の側からの批判であり諷刺であらうが、農民自身が自分の姿にこれだけの諷刺と愛嬌を添へ得てゐないのが残念だ。地頭は到るところの土をつかめ、といふ精神でしぼりとられては農民も笑つてすますわけに行かないが、地頭の方がかうなら、それに対する農民ももとよりそれに対するだけの土をつかむことを忘れてはゐないので、当然の供出に対する不平だの隠匿米だのといふことはあんまり昔の本に書かれてゐないが、これは昔の本の観点が狂つてゐるからで、今の農村に行はれてゐることが昔なかつた筈はない。
農民の歴史はたしかに悲惨な歴史で、今日のやうに甘やかされたことはなく、悲しい上にも悲しく虐げられてきたのだが、その代り、つけ上らせればいくらでもつけ上る、なぜなら自己反省がなく、自主的に考へたり責任をとる態度が欠けてゐるからで、つまりはそれが農民の類ひ稀
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