帰ってくると、その翌日だか何日か後だか今度はBという農民がやっぱり山へ仕事に行って例のぶら下った首くくりを見てこれも気にもとめず一日の仕事を終えて帰ってくる。ある日二人が会って、山の仕事の話をしているうちに、ふと首くくりを思いだして、ああ、そうそうあんたもあれを見たのか、と語りあって、又、それなり忘れてしまったという。結城哀草果氏は、この話を、農民が世事にこだわらず、天地自然にとけこんで、のんびりしている例として、又、そういう思想的な扱い方をしているのである。
農村の文化人というものは、全国おしなべて大概こういう突拍子もない考え方で農村を愛しているのが普通で、自分自身農村自身の悪に就ては生来の色盲で、そして農村は淳朴《じゅんぼく》だなどと云って、疑ることなどは金輪際ない。
奈良朝の昔から農村の排他思想というものはひどいもので、信頼するのは部落の者ばかり、たまたま旅人が行きくれても泊めてはやらず、死んだりすると、連れの旅人に屍体を担がせて村境へ捨てさせて、連れの旅人も蹴とばすように追いだしてしまったものだ。
さわらぬ神にたたりなし、と称して、山の林に首くくりがブラブラしていても、も
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