のだの絶対のものだのと考えたら大間違いだ。江戸時代の田中丘隅という農政家が農民の頑迷《がんめい》な保守性を嘆じて「正法のことといへども新規のことはたやすく得心せず、其国風其他ならはしに浸みて他の流を用ひず」と言い、更に嘆じて「家業の耕作、田地のこしらへ、苗代より始めて一切の種物下し様に至るまで、ただ古来より仕来る事を用ひて、善といへども、悪を改めず」と嘆息している。
このことは遠い古代からすでにそうで、平安朝の昔、大伴今人という国守が山を穿《うが》って大渠《だいきょ》をひらいたとき、百姓はこれを無役無謀な工事だといって嗷々《ごうごう》と批難したが、工事を終りその甚大な利益を見るに及んで嘆賞して伴渠と名づけて徳をたたえたという。又、淳和天皇の頃、美濃の国守の藤原高房という人があって、安八郡のさる池の堤がこわれて水がたまらず灌漑《かんがい》の用を果しておらぬのを見て、修築を企てた。すると土民は口をそろえて、この池は神様が水を嫌っているのだから水を溜めない方がいいのだと騒ぎだしたが、神様が怒って殺すというなら俺はいつでも殺されてやるさ、と高房は断乎として堤を築かせたところ、工事終って灌漑の
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