愛情はそういうものだ。尤《もっと》も書きあげて一週間もたつと、今度は見るのが怖しいような気持になり、題名を思いだしてもゾッとするようになってしまう。
 あるとき友達の画家が、談たまたま手紙一般より恋文のことに至り、御婦人に宛てる手紙だけは原稿用紙は使わない、レター・ペーパーを用いる、原稿用紙は下書きにすぎないから、と言う。私は初め彼の言葉が理解できなかったほどだ。これも商売の差だけのことで外に意味はない。私にとって原稿用紙はいのちの籠《こも》ったものであり、レター・ペーパーなどはオモチャでしかない。
 商人が自分の商品に愛着を感じるかどうか、もとより愛着はあるであろうが、商うということと、作るということとは別で、作る者の愛着は又別だ。そういう中で、農民というものはやっぱり我々同様、作者なのであるが、我々の原稿用紙に当るのがつまりあの人々では土に当るわけで、然し原稿用紙自体は思索することも推敲《すいこう》することもないのに比べると、土自体には発育の力も具わっているので、我々の原稿用紙に更に頭脳や心臓の一かけらを交えた程度にこれは親密度の深いものであるらしい。その上に年々の歴史まであり、否
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