しや生き返りやしないか、下して人工呼吸でもしてやろうなどとは考えずに、まっさきに考えるのは、よけいな事にかかわり合って迷惑が身に及んではつまらない、ということだ。都会の人間なら、下して助けようとしてみるか、怖くなって逃げだして申告するかだが、怖くても逃げて申告するのが損のようで気が進まないので、怖いのを我慢の上で一日の仕事をすましてきて素知らぬ顔をしている。
越後の農村の諺に、女が二人会って一時間話をすると五臓六腑までさらけて見せてしまう、というのがあるそうだが、農村の女は自分達が正直で五臓六腑までさらけて見せたつもりで、本当にそう思いこんでいるのだから始末が悪い。女が二人会えば如何にも本音を吐いたように真実めかして実は化かし合うものだ、というのは我々の方の諺《ことわざ》なのだが、万事につけてこういう風にあべこべで、本人達が自分自身の善良さを信じて疑うことを知らないのが、何よりの困り物なのである。
なんでもかでも自分たちは善良で、人をだますことはないと信じている。そのくせ、農村に於ける訴訟《そしょう》事件といえば全国大概似たようなもので、親友とか縁者から田畑とか金をかりて心安だてに証文を渡さなかったのをよいことに、借りた覚えはないといって返却せずもともと自分の物だと主張するようになったり、隣りの畑の境界の垣を一寸二寸ずつ動かして目に余るひろげ方をして訴訟になるという類いで、親友でも隣人でも隙さえあれば裏切る。証文とか垣根とか具体的なものが何より必要なのは農村なので、実際はこれほど物質化されている精神はなく、実にただもう徹頭徹尾己れの損得観念だけだ。そのくせそれを自覚せず、自分達は非常に愛他的な献身的な精神的な生き方をしており、いつもただ人のために損をし、人に虐められるばかりだと思いこんでいる。
伊太利喜劇というものがあって、これは日本のにわかのように登場人物も話の筋もあらかたきまったもので、例のピエロだのパンタロンのでてくる芝居だ。可愛い女の子がコロンビーヌ。意地わるの男がアルカンなどときまっていて、ピエロはコロンビーヌにベタ惚れなのだがふられ通しで、色恋に限らず、何でもやることがドジで星のめぐり合せが悪くて、年百年中わが身の運命のつたなさを嘆いているのである。ところが舶来《はくらい》の芝居は情け容赦《ようしゃ》がないもので、日本の勧善懲悪《かんぜんちょうあく
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