》みたいにピエロも末はめでたしなどということは間違っても有り得ず、ヤッツケ放題にヤッツケられ、悲しい上にも悲しい思いをさせられるばかりだ。そのくせ狡《ずる》いといえばこの上もなく狡い奴で、主人の眼や人目がなければチョロまかしてばかりいる。
こういう戯画化された典型的人物が日本の農村に就ても存在していてくれれば、まだ日本農村の精神内容は豊かに、ひろく、そして真実の魂の悲喜に近づくのだが、農村は淳朴だと我も人もきめてかかって、供出をださないことまで正義化して、他人の悪いせいだという。勿論、他人も悪い。他人も悪いし、自分も悪い。これは古今の真理なのだが、日本の農村だけは、他人だけ悪くて、自分は悪くない。
今昔物語にこういう話がある。
信濃の国司に藤原陳忠という男があったが、任を果して京へ帰ることとなり深山を越えて行くと、懸橋《かけはし》の上で馬が足をすべらして諸共に谷底へ落ちてしまった。この谷がどれぐらいの深さだか、木の枝につかまって覗きこんでも底は暗闇で深さの見当もつかないというところで、崖の両側から大木の枝や灌木《かんぼく》の小枝がさしかけて、落ちたが最後アッと一声落ちて行く姿すらも見えはせぬ。もとより落ちて命のあろう筈はないが、せめて屍体でもなんとかしたいと思っても、この谷の深さではどうしてよいやら、多勢の郎党どもうろうろ相談していると、谷底の方からほのかに人の呼び声がするようだ。はてな、殿は生きておられるのじゃないか、それ呼べ、というので呼んでみると、谷底からたしかに返事がきこえてきて、旅籠《はたご》に縄《なわ》を長くつけて下してよこせと言う。さては生きておられる、それ旅籠を下して差上げろと各自縄紐を出しあって長い縄をつくり籠を下してゆくと、もうじき縄が足りなくなるというところで留って動かなくなったから、やれやれどうやら間に合ったらしい、下から合図がないものかと首を長くして待つうちに、下から声がとどいて引上げろ、という。それこの引上げが大事なところ、あせらぬように用心しろと戒《いまし》め合ってそろりそろりと引上げるが、人間が乗ったにしてはどうも手応えが軽すぎる。どうも、おかしい。なにか間違いがあるんじゃないか。いや、殿も用心して木の枝から枝をつかまりたぐっていられるので重さがないのだろう、などと上まで引上げてみると、まさに旅籠の中には人の姿がない。人の代りに
前へ
次へ
全12ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング