思わなかったが、右平がグズ弁を殺すためにつけ狙っているというミヤ子の言葉は非常に重大であること、その危険が身にさしせまっていることを感じたのである。
なぜなら、それが右平の意志ではなくて、実はミヤ子の意志であるということは、右平が思いついた意志であるよりも、はるかに強力な実行力があることをグズ弁は理解せざるを得なかったからだ。
「ミヤ子は必ず右平にオレを殺させるだろう。そして右平を罪人にするだろう」
それはグズ弁が右平を殺すよりも可能性が強いからだ。右平はもともと人々に泥棒人殺しと思われるほどの奴で、力も強くケンカにもなれている。そしてたぶん前科もあるし、余罪もあるに相違ない。右平の入獄の期間はそれだけ長くなろうというものである。
この店が都会の中の孤島だということはすでに述べたところだが、それはここの住人や常連たちの心理の、場合に於て特にそうなのである。
彼もミヤ子も、ラスコルニコフの心理だのスタヴロオギンの心理だの、というものは知らない。現代小説の心理も、現代のタンテイ小説すらも知らないのである。知っているのは、高橋おでんや、村井長庵や、妲妃《だっき》のお百なぞの事情と行為とであり、それが彼らを内部や外部から実際に推し動かす動力であった。
グズ弁は自分の身にさしせまっている危険から身を守るために真剣に闘いはじめた。
そのころ、自動車強盗の被害が極度に多くなったので、グズ弁の会社の運転手たちは身を守るために教師をたのんで講習をうけた。教師は十手の達人で、運転手たちはスパナーを手にとって戦う稽古をはじめたのである。グズ弁は真ッ先にこの講習に参加した。
「あんたはトラックだから大丈夫だよ」
と人々に云われたが、
「イヤ、トラックだって、今にどうなるか分りゃしない。ハイヤーが用心深くなると、今度はトラックが狙われる番だ」
グズ弁の稽古は誰よりも真剣そのものであった。
しかし、グズ弁はミヤ子との結婚の初志をすてなかった。むしろ益々真剣であった。そして、襲いかかる右平を逆に叩きふせ、次に中井の攻撃をも撃退して、ミヤ子を独占する最後の男となるために、スパナー戦法の稽古にはげんでいたのであった。
ある晩、グズ弁がその一夜のミヤ子の恋人であった。
屋根裏の寝室でグズ弁の着替えの世話をしていたミヤ子は、オーバー裏側のカクシの中からスパナーを見つけた。
ミヤ子
前へ
次へ
全14ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング