一道の光明を見出すが如く例の天才――乳母車をひつくり返した幸運なてあひのことを思ひださずにゐなかつた。傷の痛みのなかではあるが先生とみに勇気づいた。やがて顔の腫れもとれ、どうやら口がきけるやうになつた最初の朝、医者に向つて先生が叫んだこの劃時代的な第一声といふものは、勿論思ひつめたその一つのことである。
「いや、別に(と少しびつくりした医者が答へた)頭は良くもならないでせうが、併し悪くなることもないでせう」

          ★

 敵ながら天晴と言ひたい穏当な名答。ところが先生みる/\悄気かへつた。とうてい我々に理解のつきかねる深刻さをもつて断頭台の人の如く顔色を改めたさうである。
「そのときのなさけない悲しさといつたら、君々々」
 と、私に当時を物語りながら追憶を新らたにした先生の有様は、そのときでさへ声涙ともにくだる底の身も世もあらぬものだつた。
「病気を治すものは薬よりも気持です」と爾来意気全く消沈した先生に向つて医者は熱心にさとした。
「とかく日本人は病室の壁ばかり睨んで、めいつた気持を深めてしまふやうです。西洋人は気がめいると、ちよつと立ち上つて窓から外を眺めてきます。
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