。書斎と学校の他には何一つ知らないのである。丁度その年は満洲事変の勃発したばかりの頃で、街頭いたるところに襷掛けの中年婦人が千人針といふものを勧誘してゐる。四方八方が肉弾三勇士のレコードでまことに物状騒然たる有様である。そのうへ羅府のオリムピックでこれが又一景気だ。先生戦争の方だけは街の様子で、どうやら近いところでやつてゐるなといふことを感づいてゐたらしい。
オリンピックの方は銀座の食堂の名前も知らないのだ。新聞を読んだことがなくて新聞社へ試験を受けに出向いたといふ、勝負は始めから判つてゐるが、勿論美事に落第した。羅府といへばオリンピック、それにハリウッドでも思ひだしておけばいいので、太平洋岸に面し気候温暖と書く奴は当節君一人だらうと私が大いに彼の迂闊をせめたところ、君そういふ悲しい世の中かねえといつて嘆いてゐたが、こういふ不思議な先生だから私が自動車にひかれたといふとギックリし、それからひどく羨ましがつた。
★
この男の意見によると古来の天才といふものは一列一体にその母親が不注意で、幼年時代に乳母車をひつくり返して頭を石に叩きつけるといふやうなことを例外な
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング