それだけのことでも大変な違ひだと思ひませんか」
 ところが又この平凡な忠告がひどく先生に利いた。先生積年の人生観に革命を起したが如く意外の感動をもつて共鳴したのである。その時から先生旺に立ち上つて窓外の景色を眺め遂に美事に退院のはこびとなつた。
「じつさいに君、病気は気の持ちやうだよ。また僕達の人生もさうだよ、君」
 並々ならぬ感動をこめて先生私に斯う語ると、これは冬の真夜中のことだつたが、やにはに立ち上つて窓の方へ歩いていつた。
「外は良い月だよ。名月を見てくれたまへ、君」
 さう言ひながら雨戸を開けた。と、月がない。まつくらだ。左右をさぐり、先生たうとう縁の下の方まで探した。やつぱり月はない。
「あゝ、今日は月が出てゐないね。又、この次、月を見てくれたまへ」
 先生こう悲しげに呟いて静かにもどつてきた。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「東洋大学新聞 第一二〇号」東洋大学新聞学会
   1935(昭和10)年2月12日
初出:「東洋大学新聞 第一二〇号」東洋大学新聞学会
   1935(昭和10)年2月12日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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