しても肯定する真宗の寺域が忽ち俗臭芬々とするのも当然である。
然しながら、真宗の寺(京都の両本願寺)は、古来孤独な思想を暗示してきた寺院建築の様式をそのままかりて、世俗生活を肯定する自家の思想に応用しようとしているから、落着がなく、俗悪である。俗悪なるべきものが俗悪であるのは一向に差支えがないのだが、要は、ユニックな俗悪ぶりが必要だということである。
京都という所は、寺だらけ、名所旧蹟だらけで、二三丁歩くごとに大きな寺域や神域に突き当る。一週間ぐらい滞在のつもりなら、目的をきめて歩くよりも、ただ出鱈目《でたらめ》に足の向く方へ歩くのがいい。次から次へ由緒ありげなものが現れ、いくらか心を惹かれたら、名前をきいたり、丁寧に見たりすればいい。狭い街だから、隅から隅まで歩いても、大したことはない。僕は、そういう風にして、時々、歩いた。深草から醍醐《だいご》、小野の里、山科《やましな》へ通う峠の路も歩いたし、市街ときては、何処を歩いても迷う心配のない街だから、伏見から歩きはじめて、夕方、北野の天神様にぶつかって慌てたことがあった。だが、僕が街へでる時は、歓楽をもとめるためか、孤独をもとめるためか、どちらかだ。そうして、そのような散歩に寺域はたしかに適当だが、繁華な街で車をウロウロ避けるよりも落着きがあるという程度であった。
成程、寺院は、建築自体として孤独なものを暗示しようとしている。炊事の匂いだとか女房子供というものを聯想させず、日常の心、俗な心とつながりを断とうとする意志がある。然しながら、そういう観念を、建築の上に於てどれほど具象化につとめてみても、観念自体に及ばざること遥に遠い。
日本の庭園、林泉は必ずしも自然の模倣ではないだろう。南画などに表現された孤独な思想や精神を林泉の上に現実的に表現しようとしたものらしい。茶室の建築だとか(寺院建築でも同じことだが)林泉というものは、いわば思想の表現で自然の模倣ではなく、自然の創造であり、用地の狭さというような限定は、つまり、絵に於けるカンバスの限定と同じようなものである。
けれども、茫洋たる大海の孤独さや、沙漠の孤独さ、大森林や平原の孤独さに就て考えるとき、林泉の孤独さなどというものが、いかにヒネくれてみたところで、タカが知れていることを思い知らざるを得ない。
龍安寺の石庭が何を表現しようとしているか。如何なる観
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