悪魔の一情景の如き、日本人ならではこれほど生き生きと感じ、美しく描けないのではありますまいか? 日本人は異性同志が言葉を交し合ふだけでさへ西洋人に分らない労力と複雑な計算と、さうして西洋人同志ではてんで意味もない小さな言葉のきれつぱしにも驚くべき広がりと深さをもつて官能に理性に響きを受けることがある筈です。ここには我々をああ又かとウンザリさせるところもあるでせうが、一面当然意識していい新日本的な美があるやうにも思はれます。
西洋では男女の交際にかなりの公式があり階梯があり必然性もあるやうですが、日本ときては殆んど大部が偶然にたよるほかに仕方がないやうです。行動過少といふべきか寧ろ発表過少ともいふべき日本人にとつて必然的な行動とは即ち過剰な自意識の綿々たる内攻のことであり、発表や行為は全てこれ偶然――といふのはちとヒドすぎますが、然しとにかく一々の発表や行動の直後にすぐさまなにがしの内省批判自卑の念まで懐きがちなところから推察しても、今日の日本人には単に意見を発表するといふことすら意識の必然的な流れに比べて凡そ偶発的な相当に本人自らにとつても突拍子もないことであるらしいのは残念ながら認めないわけにいかないやうであります。
近頃唱へられてゐる長篇小説の偶然論は極めて尤もなことと思ひます。長篇小説に限らず小説にとつて新鮮な偶然ほど重大な要素もすくないやうに考へてゐるのですが、行動に型も形式もない日本人ほど新鮮で独特な偶然を持ちうる国民があるでせうか? 悒鬱な過剰な自意識はそれ自体一向に発展性がない代りに、ひとたび飛躍を与へればあらゆる可能の彼方へ飛び立つことができます。
僕の考へでは一人の男を二度同じ境遇におき同じ条件を与へても決して必ずしも同じ行為をせぬばかりでなく、まるつきり反対のことさへやりかねないと考へてゐるのです。我々は常に無数の返答、無数の可能をもつてゐます、そして、ちよつとした紙一重の気配の相違でまるつきり反対の思ひもよらない表出をとることがあつても、それは有りえないことではありません。これは日本人に限つたことではないのです。けれども行為に馴れない日本人には特にそれが可能のやうです。
ジイドはロシヤ人の愛と憎悪の激しい転換を指摘してゐますが、年がら年中内攻してゐる日本人、異体《えたい》の知れない不当な自卑にギュウギュウうなされてゐる日本人には、愛と憎
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