たのではなく、しかく真ッ正面から肝胆を砕きすぎてゐたための不幸な結果にほかならないと賢察(!)していただくまでのこともなく、僕の頑固な自問自答の悪癖と、質問といふが如き地上に最も謙虚な心を必要とする至難な事業に到底一朝一夕に着手できやう筈のない孤独児の悲劇に就ては、先刻聡明なる貴兄が充分知りぬいておられることを、僕もとくより知りぬいてゐました!
左様なわけで質問のもてない自分に呆れかへつたのですが、そこで僕も気持をかへて、いつそ気軽になにか感想でも書いてみやうと思ひついたのです。あとで貴兄の感想を洩して下されば幸福です。
僕は時々日本人であることにウンザリします。むろんウンザリしてはいけないのですが、時々ウンザリするのです。近頃自意識過剰といふことが言はれてゐますが、我々日本人の場合これを自意識過剰といふべきや行動過少といふべきや甚だもつて疑はしいと思はれるのです。
日本人は宗教心を持たない代りに、手軽な諦らめとあんまり筋道のはつきりしない愛他心とに恵まれてきました。元来情熱は一途に利己的なものであるやうですが、日本人はこれまで情熱を追求することを教へられず、途中で抑へ、諦らめることに馴らされてしまひ自分の正しい慾念よりも他人の思惑の方を余計気にしたりするやうであります。それの愚かしいことに重々気付き、又憎んでゐても、長い習慣から脱けでることができません。
横光氏の作品が西洋臭いやうに言はれてゐても、なかなかさうではないやうです。たとへば西洋臭さうな「悪魔」をとりあげてみても、まづ主人公が窓ぎわで顔を洗つてヒョッと顔をあげると前の二階に女がこつちを見てゐる、ちよつとバタ臭い場面のやうでゐて、その実この情景のあまりにも生き生きしてゐるのに驚いた私は、これが最も日本的であるからだといふ一つの考へに思ひ至つたのです。
年がら年中内攻した生活の中にくすぶつてゐる日本人には、西洋人が異性の肌に直接手をふれて感じるであらう情慾を、一目見るだけで感じだすやうに馴らされてゐる傾向もあるでせう。直接話を交してのち男女理解し合ふといふなら普通でせうが、外面てんでんバラバラに生活してゐる我々日本の男女にとつては、話もせずに話を交したと同量の濃度をもつた感動を受けたりする垣間見ただけの感覚、さういふものに西洋人以上の深さと真剣味が含まれてゐるやうに思ふのは不当でせうか? 前掲の
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