とりたてゝ変ったところもないのですし、根は気立てのよい、おとなしい人なんですけど、ねえ」
 茫然たる私に、主婦はなんでもない顔付でつけたして云った。
「キミちゃん自身が、自分のモモの肉をえぐったことは事実なんです。キミちゃんのオカミさんが、人間の肉をたべたいとか、云ったとか、これは噂ですけれども、色々曰くがあったんでしょうが、キミちゃんが思いつめたアゲクに、自分のモモの肉をえぐってオカミさんに食べさせたんだなんて、まア、噂ですから、真偽のほどは分りません」
 私は二の句のつげない状態だった。私自身が精神病院をでゝ、まだ一週間ほどにしかならない日の話なのである。
 私は真偽をたしかめたい気持にもならなかった。まるで、すべてが私の悪夢にすぎないような気持であった。私には、すべてが割りきれなかったが、割りきってみたいとも思わなかった。
 そして茫然と自分の家へ戻ったが、それから三日目の新聞に、麻薬密売者の一味があげられたという記事があり、その一人に、王子君五郎という名があがっていた。私は今もなお、妙に溜息がとまらぬような思いである。



底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998
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