。酔っていたから、助平根性は容赦なく掻き立てられても、穏やかならぬ話にこもる凄味はさすがに胸にこたえた。
「文学の指導たって、芸ごとは身に具わる才能がなければ、いくら努力してみたって、ダメなものですよ。それを見た上でなくちゃア返事のできるものじゃアないね」
「然し、先生、こんなことは、ありませんか。かりにです、かりにですよ。いえ、かりじゃアないかも知れません。天才てえものが気違いだとします。天才てえものは気違いだから、ほかの人の見ることのできないものを見ているでしょう。それがあったら、これはもう、ゆるぎのない天分じゃありませんか」
 私はお人好しで温和なこの男が、こんなに開き直って突っかゝるのを経験したことはなかった。私は内々苦笑した。私自身、精神病院から出てきたばかりだからであった。
「天才だの気違いだのと云ったって、君、僕自身、精神病院で、気違いの生態を見てきたばかりだが、気違いは平凡なものですよ。非常に常識的なものです。むしろ一般の人々よりも常識にとみ、身を慎む、というのが気違い本来の性格かも知れないね。天才も、そうです。見た目に風変りだって、気違いでも天才でもありゃしない。よしんば、ある種の天分があっても、絵の天分と、文学の天分はおのずから違う。絵の天分ある人は、元来色によって物を見ているものだし、文学の天分ある人は、文字の構成によってしか物を把握しないように生れついているもんです。だから、性格が異常だというだけじゃア、文学者の才能があるとは云われないものです」
「然し、先生、今に分ります。分りますとも。先生とヨッちゃんは、たとえば、日月です。男が太陽なら、女はお月様、そういう結び合せの御二方です」
 決然とそう云い放ち、やがて、うなだれた。
 お風呂の支度ができましたから、という知らせで、私が一風呂あびてくると、寝床の敷いてある部屋へ通された。やがて女が一風呂あびて現われた。その時はもう王子君五郎氏は、この家を立ち去っていたのである。
 私は、然し、女が私の横へねても、監視されているようで、ちょッと気持がすくんでいた。
「王子君は、日月と云ったね。日月とは不思議なことを云うものだ。あの人は、そんなことを、時々言うかね」
 と、私は女にきいた。その時である。まるで、思いがけなく、ゼンマイのネジが狂ったように女が笑いだした。決して音のきこえる筈のない冷静な懐中時計が、突如として、目覚し時計となって、鳴り狂いはじめたようなものである。
「あんな男のいうことマジメにきいて、何、ねぼけてんの。気違いって、あの人が気違いじゃないの。女装したりしてさ。変態なら分るわよ。変態でもなんでもないくせに女装するなんて、頭のネジが左まきのシルシにきまってるわ。私が自分のモモにホリモノをしただの、そのホリモノをえぐりとったのと、あの人が知っているわけがないでしょう。みんなあの人の妄想よ。ほら、見てごらんなさい。私のモモに、ホリモノだの、えぐりとった傷跡だのがあって」
 女は私にモモを見せた。まったく、何もなかったのである。そしてモモを見せる女の態度というものは、完全なパンパンの変哲もない態度であり、おかげで私は俄に安心したほどであった。
「君は、じゃア、絵描きの卵でもないのかね」
「まア、それぐらいのことは、私だって、なんとか、かんとか、それも商売よ。でも油絵の二三枚かいたこともあったわよ。あんまり根もないことを云ったんじゃア、この社会じゃア、自分が虚栄だから、人の虚栄を見破るのも敏感なものよ」
 話しだすと、先刻までの押し黙った陰鬱さは薄れて、女は案外延び延びと気楽であった。
 然し、私には、どうも解《げ》せなかった。病院へ麻薬を持って見舞に来た時から、どこにも気違いらしい変ったところはなかった。元々気違いはそうである。私は精神病院で、それを胆に銘じてきた。発作が起きた時でなければ、見分けのつくものではないのである。いわば、あらゆる人間に犯罪者の素質があるように、あらゆる人々に狂人の素質があると考えてもよい。狂人は限度の問題だという見方もありうるほどである。
 私は精神病院をでゝ以来、それまでの不眠症にひきかえて、ひどく眠るようになった。尤も、東大から催眠薬を貰っており、これは暁方になってきいてくる性質の催眠薬であった。朝食をとって、又、ひと眠りするのが習慣になっていた。
 私は翌朝目がさめると、朝食の後、女を帰して、私だけ、もう一眠り、ねむった。ぐっすり眠った。その前日まで、仕事して、過労があったせいもあった。
 目がさめると、もう午《ひる》すぎだ。私は宿の人に頼んでおいたので、風呂がわいていた。風呂からあがって、酒をのんだ。この旅館は、まだ女中がおらず、主人夫婦だけ、子供もいないのである。
「どうも、王子君には、驚いた」
 私は宿の主婦
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