声を立てゝ泣きだした、五分間ぐらゐ、天地を忘れて悲嘆にくれてゐる。いくらか涙のおさまつた頃を見はからひ、官兵衛は膝すりよせて、さゝやいた。天下はあなたの物です。使者が一日半で駈けつけたのは、正に天の使者。
 丁度その日の昼のこと、毛利と和睦ができてゐた。その翌日には毛利の人質がくる筈になつてゐたから、本能寺の変が伝はらぬうちと官兵衛は夜明けを待たず人質を受取りに行き、理窟をこねて手品の如くにまきあげやうとしたけれども、もう遅い。金井坊といふ山伏が之も亦風の如く駈けつけて敵に報告をもたらしてゐる。官兵衛はそこで度胸をきめた。敵方随一の智将、小早川隆景を訪ね、楽屋をぶちまけて談判に及んだ。
「あなたは毛利輝元と秀吉を比べて、どういふ風に判断しますか。輝元は可もなく不可もない平凡な旧家の坊ちやんで、せゐぜゐ親ゆづりの領地を守り、それもあなたのやうな智者のおかげで大過なしといふ人物です。天下を握る人物ではない。然るに、秀吉は当代の風雲児です。戦略家としても、政治家としても、外交家としても、信長公なき後は天下の唯一人者で、之に比肩し得る人物は先づゐない。たま/\本能寺の飛報が二日のうちにとゞいたのも秀吉の為には天の使者で、直ちに踵《きびす》をめぐらせて馳せ戻るなら光秀は虚をつかれ、天下は自ら秀吉の物です。柴田あり徳川ありとは云へ、秀吉を選び得る者のみが又選ばれたる者でせう。信長との和睦を秀吉との和睦にかへることです。損の賭のやうですが、この賭をやりうる人物はあなたの外には先づゐない。あなたにも之が賭博に見えますか。否々。これは自然天然の理といふものです。よろしいか。秀吉の出陣が早ければ、天下は秀吉の物になる。この幸運を秀吉に与へる力はあなたの掌中にあるのです。だが、あなた自身の幸運も、この中にある。毛利家の幸運も、天下の和平も、挙げてこの中にあり、ですな」
 隆景は温厚、然し明敏果断な政治家だから官兵衛の説くところは真実だと思つた。輝元では天下は取れぬ。所詮人の天下に生きることが毛利家の宿命だから、秀吉にはつてサイコロをふる。外れても、元金の損はない。そこで秀吉に人質をだして、赤心を示した。
 けれども、官兵衛は邪推深い。和睦もできた。いざ光秀征伐に廻れ右といふ時に、堤の水を切り落し、満目一面の湖水、毛利の追撃を不可能にして出発した。人は後悔するものだ。然して、特に、去る者の
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