黷スのは珍らしい。八百屋お七の年齢だから、惚れ方が無茶だ。私達はあつちのホテル、こつちの旅館、私の家にまで、泊り歩いた。泊りに行かうよ、連れて行つてよ、と言ひだすのは必ず娘の方なので、私たちは友達のカンコの声に送られて出発するのであるが、私とこの娘とは肉体の交渉はない。娘は肉体に就て全然知識がないのであつた。
 私は処女ではないのよ、と娘は言ふ。そのくせ処女とは如何なるものか、この娘は知らなかつた。愛人、夫婦は、たゞ接吻し、同じ寝床で、抱きあひ、抱きしめ、たゞ、さう信じ、その感動で、娘は至高に陶酔した。肉体の交渉を強烈に拒んで、なぜそんなことをするのよ、と憤然として怒る。まつたく知らないのだ。
 そのくせ、たゞ、単に、いつまでも抱きあつてゐたがり、泊りに行きたがり、私が酒場へ顔を見せぬと、さそひに来て、娘は私を思ふあまり、神経衰弱の気味であつた。よろよろして、きりもなく何か口走り、私はいくらか気味が悪くなつたものだ。肉体を拒むから私が馬鹿らしがつて泊りに行かなくなつたことを、娘は理解しなかつた。
 中原中也はこの娘にいさゝかオボシメシを持つてゐた。そのときまで、私は中也を全然知らなかつたのだが、彼の方は娘が私に惚れたかどによつて大いに私を咒つてをり、ある日、私が友達と飲んでゐると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかゝつた。
 とびかゝつたとはいふものの、実は二三|米《メートル》離れてをり、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スヰング、フック、息をきらして影に向つて乱闘してゐる。中也はたぶん本当に私と渡り合つてゐるつもりでゐたのだらう。私がゲラ/\笑ひだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめてゐる。こつちへ来て、一緒に飲まないか、とさそふと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になつた。非常に親密な友達になり、最も中也と飲み歩くやうになつたが、その後中也は娘のことなど嫉く色すらも見せず、要するに彼は娘に惚れてゐたのではなく、私と友達になりたがつてゐたのであり、娘に惚れて私を憎んでゐるやうな形になりたがつてゐたゞけの話であらうと思ふ。
 オイ、お前は一週に何度女にありつくか。オレは二度しかありつけない。二日に一度はありつきたい。貧乏は切ない、と言つて中也は常に嘆いてをり、その女にありつくために、フランス語個人教授の大看板をかゝげたり、けれども弟子はたつた一人、四円だか五円だかの月謝で、月謝を貰ふと一緒に飲みに行つて足がでるので嘆いてをり、三百枚の飜訳料がたつた三十円で嘆いてをり、常に嘆いてゐた。彼は酒を飲む時は、どんなに酔つても必ず何本飲んだか覚えてをり、それはつまり、飲んだあとで遊びに行く金をチョッキリ残すためで、私が有金みんな飲んでしまふと、アンゴ、キサマは何といふムダな飲み方をするのかと言つて、怒つたり、恨んだりするのである。あげくに、お人好しの中島健蔵などへ、ヤイ金をかせ、と脅迫に行くから、健蔵は中也を見ると逃げだす始末であつた。
 その年の春、私は一ヶ月あまり京都へ旅行した。河上の紹介で、そのころまだ京大の学生だつた大岡昇平が自分の下宿へ部屋を用意しておいてくれたが、そのとき加藤英倫と友達になつた。彼は毎晩、私を京都の飲み屋へ案内してくれて、一週間ほど神戸へも一緒に旅行した。加藤英倫も京大生で、スエデン人の母を持つアイノコで、端麗な美貌であるから、京都も神戸も女友達ばかり、黒田孝子といふ女流画家の可愛い女に惚れられてをり、この人は非常に美人であつたが、英倫はさのみこの人を好んでゐるやうでもなく、神戸の何とかいふ、実にまづい顔の、ガサツ千万な娘になんとなく惚れるやうな素振りであつた。外見だけであつたかも知れぬ。彼はセンチメンタル・トミーであつた。
 これは蛇足だが、この神戸の旅行で、私はヘルマンの廃屋とかいふ深山の中腹の五階建かの大洋館へ案内された。ヘルマン氏は元来マドロスか何かで、貧乏なのんだくれであつたが、兄が大金満家で、これが死に、遺産がころがりこんで一躍大金持になつたのださうで、そこでこゝに大邸宅をつくり、五階の上に塔をたて、この塔の中に探照燈を据ゑつけ、自分の汽車が西の宮駅へつくと、山の中腹の塔の上から探照燈をてらす。ヘルマン氏光の中へ現はれ、光の中なる自動車に乗る。この自動車が邸宅へはいるまで、自動車と共に探照燈の光が山を動いて行くのださうで、この探照燈は私が行つたとき、まだ廃屋の塔の中にそのまゝ置かれてゐた。軍艦などの探照燈と全く同じ大袈裟な物々しい物であつた。
 もう一つ、ブッタマゲルのはヘルマン先生の酒倉だ。庭の中の山の中腹へ横穴をあけて、当時の金で八万円の洋酒をとりよせ、穴の中へつめこんだ。驚くべき大穴
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