qだが、実に驚くべき洋酒の山で、私が行つたときも、ギッシリアキビンの山がつまつてゐたが、奥には本物もあつたかも知れぬ。そこでヘルマン先生は、かねて飲み仲間の親友マドロスに隣地へ小意気なバンガローをたてゝやり、二人でひねもす、よもすがら、飲んでゐたさうで、ヘルマン先生なりふり構はず、ボロ服に、貧乏時代からのマドロスパイプをくはへたまゝ、酒の外には余念がなかつたさうである。
 独探のケンギを受けて、大正五年だかに国外退去を命じられたといふ。無実のケンギで、探照燈がたゝつて怪しまれたといふ話であつたが、快男子を無益に苦しめたものである。飲み仲間のゐたバンガローに当時は日本人の老画家が住んでゐて、廃屋廃園に、私達を案内してくれ、ヘルマン氏の思ひ出をきかせてくれたのであつた。廃屋は各階毎に寝室があり、寝室にはバスルームがつき、要するにヘルマン氏は、その日の気分によつて、何階かで下界の海を眺めて酒をのみ、酔ひつぶれて、バスにつかつて、寝てしまふ万全の構へがとゝのへられてゐるわけだ。女なんか目もくれなかつたといふから、私はとても及ばぬ。これには私も、ブッタマゲた。
 矢田津世子は加藤英倫の友達であつた。私は東京へ帰つてきた。加藤英倫も東京へ来た。たぶん彼の夏休みではなかつたのか。私には、もはや時日も季節も分らない。とにかく、私と英倫とほかに誰かとウヰンザアで飲んでゐた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだつて、ウヰンザアへやつてきた。英倫が紹介した。それから二三日後、英倫と矢田津世子が連れだつて私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合つた始まりであつた。

          ★

 さて、私は愈々語らなければならなくなつてきた。私は何を語り、何を隠すべきであらうか。私は、なぜ、語らなければならないのか。
 私は戦争中に自伝めく回想を年代記的に書きだした。戦争中は「二十一」といふのを一つ書いたゞけで、発表する雑誌もなくなつてしまつたのだが、私がこの年代記を書きだした眼目は二十七、それから三十であつた。つまり、矢田津世子に就てゞあつた。
 私は果して、それが書きうるかどうか、その時から少からず疑つてゐた。たゞ、私は、矢田津世子に就て書くことによつて、何物かゞ書かれ、何物かゞ明らかにされる。私はそれを信じることができたから、私はいつか、書きうるやうにならなければいけないのだと考へてゐたのであつた。
 始めからハッキリ言つてしまふと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかつた。然し、メチルドを思ふスタンダールのやうな純一な思ひは私にはない。私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。接吻したことすら、恋し合ふやうになつて、五年目の三十一の冬の夜にたゞ一度。彼女の顔は死のやうに蒼ざめてをり、私たちの間には、冬よりも冷めたいものが立ちはだかつてゐるやうで、私はたゞ苦しみの外なにもなかつた。たかゞ肉体ではないか、私は思つたが、又、肉体はどこにでもあるのだから、この肉体だけは別にして、といふ心の叫びをどうすることもできなかつた。
 そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。
 その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。
 私は戦争中、ある人妻と遊んでゐた。その良人は戦死してゐた。この女の肉体は、最も微妙な肉体で、さういふ肉体の所有者らしく、貞操観は何もなく、遊ぶ以外に目的はないやうだつた。
 この女は常にはたゞニヤ/\してゐるばかりの凡そだらしない、はりあひのない女であつたが、遊びの時の奔騰する情熱はまるで神秘な気合のこめられた妖精であつた。別の人間としか思はれない。
 然し、淫楽は、この特別な肉体によつてすらも、人の心はみたされはせぬ。私が矢田津世子の肉体を知らないことに満ち足りる思ひを感じるやうになつたのは、そのときからで、それは又、あたかも彼女の死のあとだから、無の清潔が私を安らかにもしてくれた。
 魅力のこもつた肉体は、わびしいものだ。私はその後、娼婦あがりの全く肉体の感動を知らない女と知ると、微妙な女の肉体とあひびきするのが、気がすゝまぬやうになつてゐた。
 娼婦あがりの感動を知らない肉体は、妙に清潔であつた。私は始め無感動が物足りないと思つたのだが、だん/\さうではなくなつて、遊びの途中に私自身もふとボンヤ
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング