ら、情熱と魂を嘲笑してしまふやうな気がする。私は果して書きうるのか。

          ★

 私はそのとき二十七であつた。私は新進作家とよばれ、そのころ、全く、馬鹿げた、良い気な生活に明けくれてゐた。
 当時の文壇は大家中堅クツワをならべ、世は不況のドン底時代で、雑誌の数が少く、原稿料を払ふ雑誌などいくつもないから、新人のでる余地がない。さういふ時代に、ともかく新進作家となつた私は、ところが、生れて三ツほど小説を書いたばかり、私は誘はれて同人雑誌にはいりはしたが、どうせ生涯落伍者だと思つてをり、モリエールだのボルテールだの、そんなものばかり読んでをり、自分で何を書かねばならぬか、文学者たる根柢的な意欲すらなかつた。私はたゞ文章が巧かつたので、先輩諸家に買ひかぶられて、唐突に、新進作家といふことになつてしまつたまでであつた。
 私は同人雑誌に「風博士」といふ小説を書いた。散文のファルスで、私はポオの X'ing Paragraph とか Bon Bon などといふ馬鹿バナシを愛読してゐたから、俺も一つ書いてやらうと思つたまでの話で、かういふ馬鹿バナシはボードレエルの訳したポオの仏訳の中にも除外されてゐる程だから、まして一般に通用する筈はない。私は始めから諦めてゐた。たゞ、ボードレエルへの抗議のつもりで、ポオを訳しながら、この種のファルスを除外して、アッシャア家の没落などを大事にしてゐるボードレエルの鑑賞眼をひそかに皮肉る快で満足してゐた。それは当時の私の文学精神で、私は自ら落伍者の文学を信じてゐたのであつた。
 私は然し自信はなかつた。ない筈だ。根柢がないのだ。文章があるだけ。その文章もうぬぼれる程のものではないので、こんなチャチな小説で、ほめられたり、一躍新進作家にならうなどと夢にも思つてゐなかつた。
 そのころ雑誌の同人六七人集つて下落合の誰かの家で徹夜して、当時私たちは酒を飲まなかつたから、ジャガ芋をふかして塩をつけて食ひながら文学論で徹夜した。その夜明け、高橋幸一(今は鎌倉文庫の校正部長)が食ふ物を買ひに外出して、ついでに文藝春秋を立読みして、牧野信一が「風博士」といふ一文を書いて、私を激賞してゐるのを見出したのである。
 人間のウヌボレぐらゐタヨリないものはない。私はその時以来、昨日までの自信のないのは忘れてしまつて、ほめられるのは当り前だと思つてゐた
前へ 次へ
全20ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング