オ、又、だから、たぶん、あるひは今ごろ、そこにゐるのではないかと、とも考へた。とりとめもなく、ふと、思ふ。私は山を歩いてゐる。穂高を、槍を、赤石を。すると、私のつれてゐる女は、矢田津世子だつた。そして私は、ものうい昼の湯の宿の物思ひから、我にかへる。私の女が、ひとりで喋り、ひとりでハシャいでゐるときにも、私はそれをきいたり見たりしてゐるやうな笑ひ顔で、ふと物思ひに落ちこんでゐた。
「あなたは奥さんないの? アラ、うそ。あるでせう」と、女がきく。
「あるよ」
「お子さんは」
「一人だけ」
「あなたの奥さんは、とても美人よ。私、わかるわ。ツンとした、とても凄い美人なのよ」
「どうして、分る」
「ほら、当つたでせう。私の経験なのよ。私みたいな変チクリンなお多福を可愛がる人の奥さんは、御美人よ。私、何人も、その奥さんの顔を見てやつたわ。美人女給を口説く人の奥さんは、みんな、ダメ。でもね、私を可愛がる人は、特別優秀なのよ。なぜだらうな。よつぽど私が、できそこなひなのかしら」然し、女は、どことなく可愛い顔立ちだつた。それに、姿がスラリとして、色気があつた。心が無邪気であるやうに、全身に、無邪気な翳がゆれてゐた。二十三とか四であつたが、十七八の小娘のやうなところがあつた。全裸になつて体操するのが大好きで、ひとり余念もなく、大らかで、たのしげで、だから清潔で、温泉の湯ぶねの中でも、のびたり、ちゞんだり、桶をマリか風センにして遊んでゐたり、いつも動いてゐるのだ。男に裸体を見せることを羞しがらず、腕や腹や股に墨筆で絵を書かせてキャア/\よろこび、だからむしろ心をそゝる色情は稀薄であつた。マネキンになりたいけれども、シャンぢやないからダメなんだ、とこぼしてゐたが、私はそのとき、なるほどこれは天来のマネキンとでもいふのだらうなと思つたほど、常に動きが、そして言葉が、生き/\としてゐた。あれは、どこの宿であつたか。もう旅の終りで、あの日は沼津で映画だか芝居だか見て、私はそれを見ながら二合瓶をラッパのみにして、いくらか酔つてゐたのだが、それから長岡だかその隣りの温泉だかへ泊つたときであつたと思ふ。女はいくらかシンミりして、
「ねえ、まだ、東京へ帰るのは厭だな。もう一週間ばかり、つきあはない。私、このへんの酒場で女給になつて、稼ぐから」
「チップで宿銭が払へるものか」
「あゝ、さうか」女はひどく
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