ォあらゆる宿命を陽気に送り迎へてゐるとしか思はれぬやうだつた。そして、私の沈黙の気質だの、陰鬱な顔附などを全然気にかけてゐなかつた。バスの車掌をしてゐたが、おツリの出し入れが面倒くさくてやめてしまつたのださうで、道を歩きながら車掌のマネをしてみせて、次は何々でございます、ストップねがひます、大きな声、往来の人々がビックリふりむいて顔を見るのを気にかける様子もない。
 私達は足掛け八日旅行した。たしか八日だつたと思ふ。八日帰りがなんとか言つたが、金がなくなつてしまつたので、女が大いにケンヤクを主張して安温泉を廻つて歩き、ヒルメシはカツドンばかり食はされた。私がをかしくて仕方がなかつたのは、この女は人の顔の品定めなどテンからやらぬたちなのだが、バスに乗つた時に限つて女車掌の品定めをして、あら、あの子、凄いシャンだ、と言ふ。一向にシャンでもないから、君の会社はよつぽどデブばかり揃つてたんだな、と笑ふと、この時ばかりはいさゝかてれて、ウームと一と唸り、メーデーだか何だかに赤旗かつぐのが羨しくてバスの車掌になつたのだけれども、共産党になれと言はれて、閉口したのださうである。まつたくこの女はオッチョコチョイで、出鱈目だつたが、共産党の地下運動にはカブトをぬぐ性質に相違なく、五十銭寄附したけれども、あとは降参、逃げだしたと言つてゐた。モグることができないタチであつた。
 私が旅館でふと思ふのは、矢田津世子もWとこんなところへ来るのだらうな、といふことだつた。尤も、我々の旅館よりは高級であるに相違ない。待合であるかも知れぬ。尚それよりも怖れたのは、この旅先で、矢田津世子とWの姿を見かけないか、といふことだつた。私と女が見られることへの怖れではなかつた。純一に、彼等の姿を見かけることの、その事実を確めさせられることの恐怖と苦痛であつた。
 私はそのころ、路上でふと立ちすくむことがあつた。胸は唐突にしめつけられ、呼吸が一瞬とまつてゐる。私はふりむいて一目散に逃げる衝動にかられてゐるのだ。私は街角を怖れた。又、街角から曲つて出てくる人を怖れた。私は矢田津世子の幻覚におびえてゐたのだ。よく見れば似つかぬ女が、見た瞬間には矢田津世子に思はれ、私は屡々路上に立ちすくんでゐたのであつた。
 別して私は温泉で、矢田津世子とWの幻覚になやまされた。こんな安宿に彼等が泊る筈はないと信じながら、廊下で見
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