速に悪化した。一行といえども読書ができぬ。一字一字がバラバラで、一行をまとめて読みとる注意力がつづかない。意識は間断もなく分裂、中断、明滅して、さりとて娘の姿を意識の中でとらえることも出来ない。
母に願って娘と結婚させて貰おうか、と考えた。けれども悟りをひらいて偉大なる坊主になろうという時であるから煩悶した。母にたのんだところで承知する筈はないし、反対を押切り娘と二人で生きぬこうかと思いもしたが、坊主になる決意の下では、こういうことが邪念であり妄想だという考え方が対立した。神経衰弱退治どころの話ではない。ほっとくと気違いになりそうだから、まだ夏休みが半分ぐらい残っていたが、突然思い立って東京へ戻った。その日、突然呆気にとられる母の顔に苦い思いをしながら、出発してしまったのだ。すると娘が追っかけてきて、忘れ物です、と云って、路上で何かを届けてくれた。この忘れ物が何だったか、まったく記憶に残らぬけれども、娘はその品物を届けるために外の何事も考えずに駆けて来たのに相違なく、決勝線へ辿りついた百米選手のような呼吸であった。その後は再び娘に会ったことがない。
僕が早く帰ってきたので東京の婆やは喜んだけれども、神経衰弱は悪化の一方で、秋の訪れる頃、病状言語を絶し、毎朝池袋から省線で巣鴨の方へ行く筈なのに、プラットホームの反対側が赤羽行きで、あっちは赤羽行きだからイケないとそればかり考えるうちに赤羽行きの車掌が出発の笛を吹くと、アッ、たしかこっちが俺の行く方だ、と急にそう考えて乗ってしまう。之が毎朝のことである。なさけなさ、毎朝、板橋へつき、泣いても泣ききれぬ思いで茫然と戻る虚しさは切なかった。神経衰弱というものは単に精神的に消耗するばかりでなく、肉体的にも稀代の衰弱を見せるもので、田園へ散歩に行き三四尺の流れが飛び越せず水中に落ち、子供とキャッチボールしたら、十米ぐらいの距離をボールがとどかぬ。僕は元来インターミドルで優勝したジャンプの選手で、又、野球も選手、投手であった。もう四十に手のとどこうという今日此頃でも、五米ぐらいは飛べるし、手榴弾投げは上級にパスするぐらい。神経衰弱というものは奇怪な衰弱を表すものだ。考えてもみなさい。たった三四尺の流れを飛ぶのに全然足が上らず、引きずるようにバチャンと水中に落ちる驚きと絶望。自由自在に飛ぶ筈のボールが人の手を借りて投げるような
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