には参った。僕の部屋のことはみんなこの娘がしてくれるのだけれども、ある朝、もう御飯でございます、お起きなさいませ、と言ってやってきて(してみると、午前二時に起き、水をかぶるのは昔の夢、この頃はモーローふてねを結ぶに至っていたのであろう)よろしい、起る、そこで娘はカヤを外していた。僕はまだネドコにひっくりかえっていたが、煙草をとって貰おうと思って、ちょっと、とよんだ。娘の全身は恐怖のために化石し、然し、それは、期待のために息苦しい恐怖であった。僕は怖い顔をして、煙草と叫んだが、その時以来、僕の分裂した意識の中で、この娘の姿ばかりが、時ならぬ明滅、ために僕は疲れ、身心ねじくれた。
 悪いことには、この時以来、娘が急に信頼をよせて、怖がる様子がなくなった。そのころ家では毎日夕方になると一家総出で庭に水をまく。この土地は夕方になると風が凪ぎ、ソヨと動く物もない。母は夕凪ぎが大きらいで、庭一面に水をまかせて、せめて涼をとりたがる。僕は海から戻ってくるのが夕方で、これも神経衰弱退治と心得、水着の姿でまっさきにバケツをぶらさげて庭へとびだして水をまく。女中もみんな飛びだしてきて、娘も甲斐々々しく尻を端ショッて現れる。(このころはアッパッパはなかった。)僕は神経衰弱でも青年男子であるから一番遠い所へ水を運び、人の最も好まざる苦難を敢て行うというのは、之も青道心のせめてもの心掛けというものであった。離れの後を廻って便所の裏、そんなところは誰も水を運んでこない。ところが、娘が、重いバケツをぶらさげて、ヨタヨタしながら、僕につづいて、やってくる。僕のバケツがカラになると、待っていて自分のバケツを差出すのだった。そのバケツを手渡す時の一瞬、まさしく一瞬、なぜなら、娘はすぐ振向いて逃げ去ってしまうから、その瞬間の娘の眼に僕は生れて始めて男女の世界というものを痛烈に見たのであった。その一瞬、娘は僕の顔を見る。「うるおい」とでも言うより外に仕方のない漠然たる一つの生命を取去ったなら、この眼はただ洞穴のような空虚なものであり、白痴的なものであった。生命よりも、むしろ死亡のむなしさに満ちていたことを、思いだすのは間違いであろうか。僕は娘が好きであった。だから、この一瞬の眼は、僕の全部をさらいとる不思議な力であった。逃げ去る娘を茫然と見送り、幸福な思いのために暫時を忘れるのであったが、僕の神経衰弱は急
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