上切支丹史』に書かれている事実だ。
 二合五勺配給のわれわれはどうにも信じようがなくなるのは無理もない。われわれはついさきごろまでは二合一勺だの、そのうえ、その欠配が二十日もつゞいていたのだから。しかるにわれわれは暴動も起しておらぬ。拷問よりも三合の米に降参したという浦上切支丹の信仰が、だらしがなかったのではなかろう。要するに、戦争というものが、信仰などより、ケタちがいに深遠巨大な魔物であるからに相違ない。われわれは、このふしぎさを自覚していないだけだ。勝手に戦争をはじめたのは軍部で、勝手に降参したのも軍部であった。国民は万事につけて寝耳に水だが、終戦が、しかし、自分の意志でなかったという意外の事実については、おゝむね感覚を失っているようである。
 国民は戦争を呪っていても、そのまた一方に、もっと根底的なところで、わが宿命をあきらめていたのである。祖国の宿命と心中して、自分もまた亡びるかも知れぬ儚さを甘受する気持になっていた。理論としてどうこうということではない。誰だって死にたくないにきまりきっている。それとは別に、魔物のような時代の感情がある。きわめて雰囲気的な、そこに論理的な根柢はまったく稀薄なものであるが、ぬきさしならぬ感情的な思考がある。
 家は焼かれ、親兄弟、女房、子供は焼き殺されたり、粉みじんに吹きとばされたり、そういう異常な大事にもほとんど無感覚になっている。人ごとではない。自分とて今日明日死ぬかも知れず、いな、昨日死なゝかったのがふしぎな状態を眼前にしながら、その戦争をやめたいとみずから意志することは忘れていたのである。
 忘れていたのではない、その手段がありえなかったからあきらめていたのだといっても、おなじことで、要するにあきらめていた。勝手に戦争をやめ、降参したのは、まさしく天皇と軍人政府で、国民の方はおゝむね祖国の宿命と心中し、上陸する敵軍の弾丸、爆弾、砲弾の隙間をうろうろばたばた、それを余儀ないものにおもっていたのだ。
 もとよりそれは本心ではない。人間の本心というものは、こればかりはわかりきっているのだから。曰く、死にたくない、ということ。けれども、本心よりも真実な時代的感情というものがある。人の心には偽りがあり、その偽りが真実のときは、真実が偽りでありうることもある。人の心は儚い。心の真実というものが儚いのだ。
 戦争中のわれわれは、たゞ
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