だろうッて言ったくせに」
「そうは云ったさ。しかし、そのあとで気がついたのだ。どうやら、お前の疑問は一番急所に近づいているんじゃないかということにね」
「むしろ一番急所を外れていたのよ。あんまり尤もらしいのは、偶然という大事な現実を忘れさせる怖れがあるわ」
父は切なげに、首をふった。
「オレはお前の身が心配で、お前が陳の邸から出てくるまでというもの、この事件のためではなしに、お前の身のために、この事件について考えた。そのために、今まで捉われていて気づかなかった怖しいことに気がついたのさ。お前の話をきいてから、いよいよその確信が深くなった。さ、おいで。オレの確信をたしかめるのだ」
「どこへ行くのです」
「安心おしよ。陳の邸じゃない。警察へ行くのだ。そして、お前に見せたいものがあるのだよ」
父と娘は警察へ行った。そして父が娘をつれて行ったのは、この事件の証拠品の前である。
「ここに五十五個の南京虫がある。五十四は奈々子の家からでてきたが、一ツは陳の邸内の犯人がとび降りた地点で拾ったものだ。どれがそれか判るかね」
「判るわ。腕輪のついてるのがそれよ」
「そうだ」
次に父は被害者の現場写真をとりだして、娘に示した。
「この写真を見てごらん。なにか気のつくことはないかね」
それは安らかに死んでいる奈々子の上半身であった。注射をうたれて死んだのだから、左の腕は肩の近くまで袖がまくれているが、それ以外は特に変ったこともない。
「特に気のつくことって、なさそうじゃないの」
「では、次に、これだ」
父は証人の証言をとじたものを開いて、一ヵ所を探しだした。
「ここを読んでごらん」
それは附近の時計商の証言であった。それによると、当日の午すぎに奈々子が南京虫を一ツ売りにきた。売った金で、今度は時計の腕輪を買って戻ったというのだ。時計を売ったから、むしろ腕輪の不要品が一ツふえた筈なのに、腕輪を買って戻ったから、甚だ奇異に思ったと時計屋は語っているのである。
「そうねえ。時計屋さんはフシギがったでしょうね」
「お前はフシギじゃないのか」
「だって、彼女は持たないから買ったんでしょうね」
「当り前さ。その腕輪は、ホレ、南京虫と一しょに、注射をうった奈々子の左腕に巻かれているじゃないか」
「そうね」
「すると、こッちの南京虫は?」
父はそう云いながら、陳の邸内で拾ってきた南京虫の輪をつまんで、ブラブラふって見せた。百合子の顔色は、次第に蒼ざめた。百合子は思わずテーブルのフチをシッカとつかんで、
「だから、お父さんは、どうだって云うのよ」
「意地をはるのは、よせ」
父は腕輪のついた南京虫を元の場所へ戻した。奈々子の家から発見された五十四個は、時計だけで、腕輪がついていないのだ。
「お前のカンはすばらしいのだ。オレはお前があの晩陳の庭でこの時計を拾ったとたんに呟いた言葉を覚えているのだ。男が南京虫とは変だなア、とお前は呟いたのだぞ。もっとも、翌日になると、奈々子の屍体が発見され、室内から南京虫が腐るほど現れてきた。そのために、陳の邸内で拾った南京虫の特異性というものがにわかに薄れてしまって、犯人の歩いたところに南京虫が一ツ二ツ落ッこッてるのは当り前だと誰しも軽く思いこんでしまったのだ。オレも、むろん、そうだった。ようやく、今日になって、あそこで拾った南京虫に限って腕輪のついてることに気がついたのだよ」
百合子はいらだたしげに叫んだ。
「だから、どうだって云うんです」
父の顔はひきしまった。
「警官らしい態度じゃないぞ。だから、言うまでもなく――お前、ちゃんと知ってるじゃないか。陳の庭内へ逃げこんだのは、男装した女だったに相違ない。犯人が落したのは、盗んだ南京虫ではなく、彼女自身の所持品、彼女の腕につけていた南京虫だったのだ。奈々子の腕には彼女の南京虫がチャンとまかれていたのだから、それ以外には考えられないじゃないか」
「大金持の令嬢が、人を殺して物を盗る必要はないじゃないの」
「オレも、それを考えたのだ。しかし、お前が、それほど陳の令嬢の美貌に眩惑されてしまったから、オレは新しいヒントを得たのだ。ミス南京は絶世の美女だというではないか。どうだ。それで、いくらか、分りかけてきやしないか」
「分りかけてきやしないわ」
「よし、よし。今に、わかる。とにかく、あの邸内へ逃げこんだ男の顔はオレだけが見ているのだからな。いかに黒ずんだドーランをぬたくり眼鏡をかけていても、オレが首実検すれば判ることだ」
[#5字下げ]ミス南京の告白[#「ミス南京の告白」は中見出し]
波川巡査は娘にだけは自分の見込みを語ったが、まだ他の誰にも打ち明けない。海千山千の経験者に打ち明けるには大事を要するし、見込み通りとなれば一世一代の晴れがましい成功となる。彼にとっては生れて以来の大事件で、思えば思うほど心が波立つばかりである。わくわくする胸を押えて、署内をなんとなく歩いたりしながら、懸命に作戦をねりあげている。
そのヒマに娘の姿がどこかへ消えてしまったのに気づかなかった。
百合子はいつのまにか署を抜けだして、すでに陳家の玄関で令嬢と対坐していた。なかば茫然とここへ辿りついてしまったのである。
さすがに令嬢は蒼ざめていた。しかし、百合子が父の推理を語り終ると、静かに百合子の手をとって、握りしめた。
「ありがとう。百合子さん。本当に、うれしいのよ。私のお母さんだって、百合子さんのように私をいたわってくれなかったわ」
令嬢が涙ぐんだので百合子も涙ぐみ、
「じゃア、本当にそうでしたの?」
「あら、ちゃんと知ってるから駈けつけて下さったくせに。ミス南京はたしかに私です。そして、奈々子さんを殺した共犯者もたしかに私です。私の父は台湾ではなく香港に居ります。そして、南京虫と麻薬を日本へ輸送していたのです。だんだん密輸ルートが見破られて面倒になったので、新しい方法を考えました。それは麻薬患者を探しだして、麻薬を餌に、密輸の荷物の仮の受取人に仕立てることです。奈々子さんはその受取人の一人だったのです。ところが、あの日、ひそかに荷物をあけて内容を知り、慾に目がくらんで荷物の到着を否定したのです。そのうち麻薬がきれかけて、私の同行者が、時々奈々子さんにそうしてあげたように注射してあげたのですが、彼は奈々子さんの変心によって、新しい密輸ルートの発覚を怖れるあまり、奈々子さんが無自覚のうちに多量の注射をうって殺してしまったのです」
令嬢はもう平静をとりもどしていた。そして、微笑すら浮べて語りつづけた。
「私は父の相棒をつとめて数億の金を握りましたが、父が今度日本へ戻ったら、父を殺すつもりでした。乱世ですから、私の心は鬼だったのです。お金をもうけて、復讐してやりたかったのです。私を苦しめた人にも、苦しめない人にも、とりわけ、父に復讐しなければならなかったのです。なぜなら、彼は父ではないからです。彼は私の良人《おっと》なのです。私はお金で買われた内妻の一人です。そして私は日本人です」
令嬢はきつく力をこめて百合子の手を握りしめると立上った。そして、笑みかけた。
「私の日本名と、素性だけは、私と一しょに永遠に墓の底に埋めさせてちょうだい。私はこれからいまと同じ内容の告白書を綴って死にますが、私が日本人で、彼の妻であることだけは書きたくないのです。誇りが許さないのです。あなたにだけは打ち明けましたが、もしも私があなたすらも偽って死んだとすれば、死後の淋しさに堪えられないでしょう」
茫然と居すくむ百合子をのこして、令嬢は静かな足どりで自室への階段を登って行った。
底本:「坂口安吾全集 13」筑摩書房
1999(平成11)年2月20日初版第1刷発行
底本の親本:「キング 第二九巻第五号」
1953(昭和28)年4月1日発行
初出:「キング 第二九巻第五号」
1953(昭和28)年4月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2010年5月19日作成
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