太后であり、その亡きあとは、押勝の企みが万能でありうることを見抜いてゐた。彼は争ひを好まなかつた。彼は三千代の長子であり、光明太后の異父兄であり、その柄になく左大臣になつたけれども、家族政府の実直な番頭といふ心あたゝかな責務以上に、政治に対する抱負もなく、又は特別の才腕もなかつた。人と争ひ、押しのけてまで、地位に執着しなければならないやうな、かたくなゝ思ひは微塵もなかつた。彼はあつさり辞任した。みれんなく都の風をすて、山吹の咲く井出の里に閑居して、そして、翌年、永眠した。
 残る邪魔者は、彼の実兄、右大臣豊成が一人であつた。彼は兄の失脚の手掛りを探したが、温良大度、老成した長者の右大臣には直接難癖のつけやうがなかつた。
 そのころ、押勝の専横を憎む若手の貴族に、暗殺の計画がすゝめられているといふ噂があつた。
 あるとき、大伴古麿が小野|東人《あずまびと》に向つて、押勝を殺す企みの者があるときはお前は味方につくか、ときくので、東人は、つきますとも、と答へたといふ。するとこの話を伝へきいた右大臣の豊成が、弟は世間知らずなのだから、私からよく訓戒を与へておかう、早まつてお前たちが殺したりはしてならぬ、と言つたといふ。
 橘諸兄の子の奈良麿《ならまろ》は父に加へた押勝の讒言《ざんげん》を憎んでゐた。そのうへ彼は当時の政治に反感と義憤をいだいてゐた。即ち彼は東大寺や国分寺の建立のために、全ての犠牲と苦しみが人民たちにかゝつてゐるのに堪へがたい不満をいだいてゐたのであつた。彼は押勝と大炊王を暗殺して、正しい政治を欲してゐる皇太子を立て、日本の政治を改革したいと考へてゐた。その相棒は大伴古麿で、クー・デタを計画し、兵器を備へてゐるといふ噂があつた。密告は重ねて光明太后の耳にとゞいた。
 然し、光明太后はそれらの密告をとりあげなかつた。たゞ、噂にのぼる人々を召し寄せて、私はそのやうなことは信じたことはないけれども、然し、国法といふものは私と別にあるのだから、皆々も家門の名誉といふものを失はぬやう心掛けてくれるがよい。お前たちは私の親しい一族の者に外ならぬのだから、私の言葉は大切にきくがよい、と、さとされた。
 けれども、やがて、山背《やましろ》王の密告は打消すことができなかつた。廃太子道祖王、黄文《きぶみ》王、安宿《あすか》王、橘奈良麿、大伴古麿、小野東人らが皇太子と押勝暗殺のクー
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