ものが可愛いかつた。彼女はたゞ自らの好むものを好めばよい。標準もなくモデルもなかつた。たゞ仲麿に見出した全てのものが、可愛くて、いとしくて、仕方がなかつたゞけだつた。
 天皇は仲麿を見るたびに笑《え》ましくなるので、改名して、恵美押勝《えみのおしかつ》と名のらせた。押勝とは、暴を禁じ、強に勝ち、戈《ほこ》を止《とど》め、乱を静めたといふ勲《いさおし》の、雄々しい風格の表現だつた。そして大保《たいほう》に任じ、あまつさへ、貨幣鋳造、税物の取り立てに、恵美家の私印を勝手に使用してよろしいといふ政治も恋も区別のない出鱈目な許可を与へたのである。

          ★

 孝謙天皇の皇太子は道祖《フナド》王で、天武天皇の孫に当り、他に子供のない聖武天皇は特にこの人を愛して、皇太子に選んだ。それは聖武の意志であり、政治に就て親まかせの孝謙天皇は、まだその頃は皇太子などはどうでもよくて、自身の選り好み、差出口はしなかつた。
 恵美押勝(まだその頃は藤原仲麿だつたが、時間の前後による姓名の変化は以後拘泥しないことにする)はその長男が夭折した。そして寡婦が残された。そこで道祖皇太子の従兄弟に当る大炊《おおい》王を自邸に招じ、この寡婦と結婚させて養つてゐた。彼は女帝が皇太子に親しみを持たないことを知つてゐたので、それを廃して、大炊王を皇太子につけたいものだと考へてゐた。
 死床についた上皇は、天下唯一人の女であらねばならぬ娘が、やつぱりたゞの肉体をもつ宿命の人の子であることに気付いてゐた。上皇はたゞ怖しかつた。全てを見ずに、全てを知らずに、ゐたい気持がするのであつた。然し、彼は、ともかく娘を信じたかつた。なぜ肉体があるのだらうか。あの高貴な魂に。あの気品の高い心に。その肉体を与へたことが、自分の罪であるとしか思はれない。そして彼は娘のその肉体にかりそめの訓戒をもらすだけの残酷さにも堪へ得なかつた。
 彼は死床に押勝をよんだ。腕を延せば指先がふれるぐらゐ、すぐ膝近く、坐らせた。そして、顔をみつめた。私の死後はな、彼は相手の胸へ刻みこむやうに、一語づゝ、ゆつくり言つた。安倍内親王(孝謙帝)と道祖王が天下を治めることになつてゐる。安倍内親王と、それに、道祖王がだよ。お前はこのことに異存はないか。はい、まことに結構なことゝ存じてをります。さうか。それならば、神酒を飲め。そして、誓ひをたて
前へ 次へ
全24ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング