然村民が鉄砲と礫を打ちかけて来て負傷し、辛くも遁げ帰つた。
ところが、深江村の佐治木佐右衛門といふ者が尚も藁屋に切支丹の絵を祀り村民を集めて拝んでゐるといふので、代官林兵左衛門が踏込み、絵を火にくべて立去ると、すぐそのあとへ天草と加津佐から四五十人の者が参拝に来てこのことを聞き、代官のあとを追つかけて、遂に林兵左衛門を殺した、といふのである。
(下)
以上が一揆の発端であるが、之をきつかけにして諸村に暴徒が蜂起した。各地に代官を追ひ廻し、生捕つて責殺《せめころ》し、一揆に与《くみ》せぬ者の家に放火し、仏寺を破り、やがて合流して島原城へ押寄せるのであるが、この記録のうちで最も生々しく活写されてゐるのはこの部分で、各山野に叫喚をあげて代官を追ひ廻す有様は手にとるやうである。
この生々しい記述から判じて、この筆者は原城籠城はとにかく、尠くとも一揆の当初は動乱について共に走つてゐた一人ではないかといふ想像が不可能ではない。
一揆の一味ではないにしても、とにかく一揆の村の住民の一人かとも思はれ、それも天草の住民ではなく、島原半島の住民であらうといふ想像がしてみたい。
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