から、思ひもよらぬ女の人が走りでゝ来て、ていねいに教へてくれた。宿屋で、何か切支丹のことを聞きださうとしたが、主婦は、私の言葉が理解できないらしく、やゝあつてのち、このあたりではキリスト教を憎んでゐます、と言つた。
二 原因
島原の乱の原因は、俗説では切支丹の反乱と言はれてきたが、今日、一般の定説では、領主の苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》による農民一揆と言はれてゐる。天草四郎が松平伊豆守に当てた陣中の矢文にも、領主松倉長門守の重税を訴へ「近代、長門守殿内検地詰存外の上、剰《あまつさ》へ高免の仰付けられ、四五年の間、牛馬書子令文状、他を恨み身を恨み、落涙袖を漫《ひた》し、納所《なっしよ》仕《つかまつ》ると雖も、早勘定切果て――」と書いてゐる。
然し、重税の内容がどのやうなものであつたか、この文章からは分らない。牛馬書子令文状といふものがどのやうなものであるか、それすらも分らないのだ。又、日本に残る記録には、之に就て語るものが、まつたくない。たゞ、教会側に、ポルトガルの船長ヂュアルテ・コレアの手記があり、これによつて、推察しうるにすぎない。コレアは、一揆の当時、大村の牢屋にゐ
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