ふ農家が殆どない。私は朝の眠りを牛の声に妨げられ、旅行のバスも屡々《しばしば》牛のために妨げられた。一概に断定はできない。
 そこで、純然たる農民一揆であるかと言へば、これが又、決して、さうは断定できぬ。明らかに、切支丹の陰謀もあつた。
 切支丹の陰謀は、主として、天草に行はれてゐた。小西の旧臣、天草甚兵衛を中心に、浪人どもを謀主とし、甚兵衛の子、四郎を天人に祭りあげて事を起さうといふのである。彼等はまづひとつの伝説をつくりあげて愚民の間に流布させた。それは、今から二十六年前(といへば、家康の切支丹禁令のことであらう)天草郡三津浦に居住の伴天連《ばてれん》を追放のとき、末鑑《すえかがみ》といふ一巻の書物を残して行つた。時節到来の時、取出して世に広めよ、と言ふのである。その書物によると「向年より五々の暦数に及んで日域に一人の善童出生し不習に諸道に達し顕然たるべし、然《しかる》に東西雲焼し枯木不時の花|咲《さき》諸人の頭にクルスを立《たて》海へ野山に白旗たなびき天地震動せば万民天主を尊《とうとぶ》時至るべきや」云々。丁度、源右衛門といふ村民の庭に紫藤の枯木から花が咲き、それも紫の咲くべき木に白が咲いた、さういふ事実にあてはまるやうに作つた伝説であつた。
 この地下運動はその年(一六三七年)の旧六月から表面に現れ、彼等は天草一円に切支丹の説教をはじめ、又、島原半島へも、及んだ。天使と担がれた天草四郎は、伝説の中の生き神様になるだけの天質があつたのだ。美貌と、神童の叡智であつた。彼は自ら、壇上に立つて説教し、諸方に信者ができた。
 十月二十五日、島原領有馬村を発火点として一揆が起きた。その十日前、十月十五日に、天草の方では次のやうな廻文が廻つてゐるのである。

 態《わざ》と申進候天人天降り被成供せんちよふむていは天主様より火のすいちよ被成候間何者なりとも吉利支丹《きりしたん》に成候はゞ爰許《ここもと》へ早々可有御越候村々庄野乙名草々御越可有候島中に此状御廻可有候せんちよ坊にてもきりしたんに成候はゞ被成御免候恐惶謹言。
  丑十月十五日[#地から2字上げ]寿庵
 右早々村々へ御廻し可被成候天人の御使に遣申候間村中の者に御中付可被成候吉利支丹に成不申候はゞ日本六十六ヶ国共に天主様より御足にていんへるのに踏込なされ候間其分御心得なさるべく候天草の内大矢野に此中被成御座候四郎様と申は天人にて御座候其分可有御心得候
 一加津佐村の寿庵と申人も則天人の御供なされ候間寿庵手前より先々へ遣申候

 つまり、島原半島には農民一揆の気運がたかまり、天草島では切支丹反乱の準備がすゝんでゐた。一揆は島原半島で爆発したが、農民だけでは収まりがつかなくなつて、天草の切支丹組に助勢をもとめ四郎を大将として原の廃城にたてこもることゝなり、一揆は、切支丹の色が濃くなつた。結局、最後には、切支丹反乱の形態になつたのである。
 徳川時代には、島原の乱といへば、切支丹騒動と一口に言つた。ところが、明治以後には、農民一揆と訂正され、切支丹の陰謀が不当に忘れられようとしたのである。これは一に教会側の宣伝と、切支丹学者の多くがキリスト教徒であるため、切支丹に有利な解釈をとりがちであつた為である。コレアの手記に拠る限り、島原の乱は純然たる農民一揆の如くであるが、コレアの手記に偏して日本の記録を無視することは不当である。コレアの手記はむしろ、参考にとゞまるものでしかあるまい。
 私が長崎図書館を訪れたとき、館長は、貴重な資料の蒐集をとりだして説明してくれたが、そのなかに、これは教会側の記録ですが、と言つて、取出したものに、小さなパンフレットがあつた。裏を返すと昭和四年発行、大浦天主堂とあり、一部五銭であつた。今も教会に売つてゐるから、もとめて御帰りなさいと言はれた。
 私が泊つてゐたイーグルホテルは、丁度、大浦天主堂の真下なのだ。ホテルをでゝ、坂道を四五十秒も歩くと、もう、天主堂の前である。翌日、私は天主堂へ登つて行つた。
 私は門番にパンフレットのことをきいた。あゝ、その本はね、昔はこゝでも売つてゐたが、今は本の係りの佐々木といふ人が取扱つてゐますから、上の入口でその人を呼出してきゝなさい、と教へてくれた。私は石段を登り、中段の入口でその人を呼出した。
 私が来意をつげると、その人の眼に狼狽の色が走つた。「そんな本は出版したことがありません」彼は言つた。
「いゝえ。出版されてゐます。私は昨日図書館で見てきたのです。図書館長が現に売つてゐるからと言つてゐます。私は怪しいものではありません」
 私は自分が小説家であること、又、この旅行の目的が島原の乱を小説にするためであることを説明して、名刺をだした。私の名刺に、彼は顔をそむけた。まるで、それが悪魔の護符であるやうな、愚昧な人の怖れで
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